SSブログ

日本人のルーツを考える・・・3つの古代王朝と日本國、渡来系DNA&Y染色体D2 [これから日本の話をしよう!]


大変興味深いニュースだ。
<<日本人の遺伝的な系統はアイヌ(北海道)と琉球(沖縄県)が縄文人タイプで、本州・四国・九州は縄文人と弥生系渡来人との混血とみられることが、東京大などのゲノム(全遺伝情報)解析で分かった。(中略)日本人の成り立ちについてドイツ人医師のベルツは明治44年、身体的特徴の共通性からアイヌと琉球は同系統と指摘。人類学者の埴原(はにはら)氏は平成3年に「二重構造説」を提唱し、本州などでは弥生時代以降に中国や朝鮮半島からの渡来人と先住民の縄文人が混血したが、アイヌや琉球は遠いため混血が少なく、縄文型の系統が残ったとした。

 今回の結果はこれらの仮説を高い精度で裏付けるもので、日本人の起源を探る上で貴重な成果という。>>

総研大と遺伝研の斎藤成也教授は「ベルツの説が101年後に最終的に証明された。本土人は大ざっぱに言えば、縄文人2~3割と弥生人7~8割の混血ではないか、と言っている。

古代の日本は、朝鮮半島とはかなり密接だった。以前、このブログでも書いたが(隣の国について語ろう。)、古代の一時期は、日本の人口の3分の1を渡来人が占めていたという話(武光氏)もあるし、渡来人を当時の未開の地に住まわせ、開拓を任せたなんて話もある。渡来人系の地域名称も多く残されている。

また、かつて、倭人とは朝鮮半島の一部を含む範囲で呼ばれていたともいう(倭寇のことではない)。

その辺のことを考えると、かつての倭国は、朝鮮の一部も含めた広域国だったのではないかと感じる。というより、ヤマト朝廷へと繋がる王朝の、最有力者の一部は、朝鮮半島と縁が深かった、という可能性もあると思う。

古代に任那があったし、百済の支援のために白村江で戦うなど、朝鮮半島への執着がある点でも、それは感じられる。これはもちろん私の独自の論ではなく、有名なところで言えば「逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎 (小学館文庫)」などでも語られるところでもある。
そう考えると、天孫降臨の記紀神話もすっきりするという話だ。

逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎 (小学館文庫)

逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎 (小学館文庫)

  • 作者: 井沢 元彦
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1997/12
  • メディア: 文庫


話は横道にそれるが、私自身もヤマト王朝についての考えがある。卑弥呼の邪馬台国が連合国であったのと同じように、ヤマト朝廷も2~3の王朝があったのではないか、というものだ。

1つ目は、奈良の三輪を本拠とする、大国主の出雲王朝。
2つ目は、アマテラスの王朝(九州、もしくは熊野)。
3つ目は、後のヤマト朝廷の本流となる王朝(九州、もしくは大和、もしくは渡来)。

上記のいずれか、もしくは別の4つ目があるのかわからないが、そこに渡来系の流れを持つ王朝があってもおかしくないと思っている。かつて倭人が朝鮮の先端を含む広域で活躍する人々をさしていたことから、任那に拠点を持つ倭人は、交易のとてつもない利点を持っていた可能性がある。この倭人の軍団は、日本列島から任那を抑えた一族なのか、逆に任那を本拠としていた一族なのかはわからない。がこの拠点を持つ意味は大きかったことだろう。その一族がそのまま王朝の1つになったのか、それとも王朝が従えた有力者として活躍したのかはわからない。


さて、このように複数の王朝があったと考えると、大国主や天照が、島根の出雲や三重の伊勢へと、大和から遠く離れた地に祀られたのも理解できる。特に伊勢神宮については、皇祖であるにも関わらず、天皇の公式参拝は明治天皇が始めてで、それ以前には大海人皇子や持統天皇の遥拝しかないことも、理解できる。

最近、奈良県の桜井市の古墳で、東国と共通することが多いということがわかり、この地の有力者は東国との繋がりが深いと考えられている。であれば国津神、つまり天孫降臨以前のこの地を支配していた国津神の王である大国主が、桜井市を根拠としていた、という理由にもなるのではないか。

ところで、考えてみれば倭国はヤマトになり、大和になり、日本になるわけだが、「ワ」と「ヤマト」と「にほん」という変化は、なんとなく唐突に過ぎる気はしないか。連続性がないというか。


日本というのは、「日出る処の」から来ていると思うが、不思議なのはヒノモトという地名が、東北の方で使われている点だ「日の本」「日下」というのは、古くから蝦夷の地、東北のほうで使われていた。

何故??

ヤマト朝廷の歴史は、東へ東へと支配地を伸ばしていく戦いだった。
神武東征やヤマトタケルの東征物語などがそれで、またもっと古くは、大国主が天孫から国譲りを迫られたとき、反対した息子は腕をもぎ取られ、諏訪(長野)まで逃げている(追われて、結局服従させられた)。


ところで、倭国ヤマト朝廷が対外的に「日本国」を名乗ったのは、700年前後だと言われている。

倭国伝によると、倭国の使者が「日本国」を名乗った時のやり取りが記されている。周の役人から、「え?日本?だってお前たち、倭国って国じゃなかったっけ?」と言われた時のやり取りである。

「日本国は倭国の別種である(日本國者倭國之別種也)」または、
「日本はもとは小国で、倭国の地をあらわす(日本或云日本●小國併倭国之地)」


話が飛びすぎた。
私は大国主が縄文人だと言いたいわけではない。

それとこれとは別で、恐らく本州にいた縄文人は、僻地へと追いやられたと思う。
例えば常陸風土記の、イバラキの一節なんて、それを表していると思う。

<茨城という名は、一説に、賊を討つために茨の城(柵)を築いたことに由来し、『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。>(ウィキ茨城県由来

この賊と書かれているのが、国巣(クズ)と呼ばれた、山に住んでいた人々で、穴を掘ってそこに暮らしていた。人(ヤマト)がくると穴に隠れ、過ぎると穴から出て遊んでいたらしい。

上の事例は残酷だが、もう少し緩やかな両者の浸透があったと思う。こういった人々が、縄文系であり、私たちの先祖なのではないかと考える。


冒頭のニュースに話を戻そう。

縄文の血はアイヌや琉球に濃い。そして、本土の人間は、「縄文人2~3割と弥生人7~8割の混血」で、弥生人は渡来系の影響を持つ。渡来系とは、朝鮮や中国だ。

日本人のルーツについてよく指摘されることの1つに、日本人独自の特色として、父系のY染色体D系統というのがある。これは、お隣の朝鮮や中国人にない特徴であるという。
DNAのことはよくわからないので間違いがあるかもしれないが、

D系統(D2系統)
・日本全国 37%(野中、水口 2007)
・アイヌ 90%
・北琉球 39%
であることを見ると、前述の、「縄文人2~3割と弥生人7~8割の混血」というのと大きな相違はないのではないか、と感じる。

ちなみに、私としては西高東低の差別問題も、この問題と合わせて気になるところである。東国では実感があまりないが、西の方は強いと聞く。少し前の話だが、関西出身のサントリーの社長が、首都移転問題の議論が盛んだったとき、テレビで東北に対する差別発言をしたことがある。
仙台遷都などアホなことを考えている人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲の産地。文化的程度の極めて低い
ちなみに熊襲ではなく、蝦夷の間違いである。彼らのような有力者が仮に支配者となった場合、一般人との混血は極めて少ないだろう。

ところで、倭人の1部とされる任那の朝鮮人と、その後の朝鮮半島で主流となった朝鮮人が一緒かというと、朝鮮半島の複雑な歴史をみると、それは疑問だ。任那や百済の系統がどれだけ残っているのか。

とりとめもなく色々と書いてしまったが、上記は1つの推測だ。単なる可能性を書いているだけであって、リアリティとしてはイマイチかと、本人でも思う。

それにしても今回の発見は興味深い。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。