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邪教・・・日本のケースを考える(人柱や生贄と、魔王を祀る神社について) [これから日本の話をしよう!]

世界には、まだまだ呪術の信仰が残っている。
世界各地で今だに魔女狩りだの儀式にちなんだ殺人などが起こっている。不幸で恐ろしいことだが、では日本ではどうか。

昨今の日本では、一部で除霊だの悪魔祓いだのという理由で、人が死にいたらされてしまう事件がある。

ただここで取り上げたいのは、そういったレアケースではなく、これまでの日本の歴史としてどうだったかということ。

日本でも色々なケースがあるのだが、ここでは私なりの視点で2つのことを紹介したい。

まず1つめ。
人柱、人身御供、生贄という信仰について。

明治か大正か忘れたが、皇居で多くの人柱が出てきて騒ぎになったことがある。
人柱というのは、まぁご存知だとは思うが、呪術的な意味合いを込めて人を埋める行為である。
多くは生きたまま埋めたり沈めたりされ、災害やら災禍をそらそうとする。

皇居から発見された人柱は江戸城築城のさいのものだと思われるが、
「伝説ではなく、本当にあったんだ・・・」
と衝撃的な事件だったと思う。

では、生贄、つまり人身御供はあったのか。

この考察については興味深い本がある。
これだ。

神、人を喰う―人身御供の民俗学

神、人を喰う―人身御供の民俗学

神、人を喰う―人身御供の民俗学

  • 作者: 六車 由実
  • 出版社/メーカー: 新曜社
  • 発売日: 2003/03/30
  • メディア: 単行本


衝撃的なタイトルだが、中身はいたって真面目な民俗学の本で、トンデモ系の本を期待して読むと肩透かしをくらうことになる。

この本の面白さは、全国の様々な人身御供の神事を、冷静な目で丹念に分析している点である。
全国には動物を生贄とした、おどろおどろしい神事がある。

鹿の頭を切り取り、並べたもの。
うさぎを尻から月刺しにしたもの。


全国の、様々に残る伝承。

そこに、生贄に人は含まれるのか。

人は、神に喰われたのか。


結論は意外な方向へ向かうことになるが、ひと言でいうと恐らく人が神に食われることはなかった。しかし、人柱など、儀式や信仰に基づいて殺されることはあっただろう。

本書は途中で少し難しく感じるかもしれない。
しかし、後半に入ると、前半を振り返りつつ結論へと持っていくので、途中で投げ出さなければ最後までちゃんと読める本だ。


2ツ目は、第六天に関する信仰である。
これも相当変わった信仰である。

第六天とは、魔王だ。
織田信長が自称したことで有名だが、仏教の魔王中の魔王。

この第六天を祀った神社が、かつては武蔵国(今の東京や埼玉)を中心に、数百という数であったのだ。

日本の神様は恵みをもたらせてくれる良い面と、恐ろしく荒々しい面との両方を合わせ持つ。にしても、魔王を祭ってしまうというのも凄い話だ。

邪教と呼ばれる、後醍醐天皇が関わったとされる立川流のような宗教もある。しかし、第六天は関東地方限定とはいえ、広く信仰が広がっていた。

しかし実は、第六天神社について、詳しいことはほとんど分かっていないのである。関東に数百という数の神社があり、信仰されていたにも関わらず、いつの間にか消えてしまった。

明治期に神仏分離の影響で、祭神が変えられたり、社名を変えたりということが起きたことも、理由として大きいと思う。

現在では、いくつか第六天神社が存在するものの、ほとんどは小祠として僅かに形をとどめている程度である。

ともかく、謎の多い、しかしかなり広く信仰されていた第六天魔王。

我々の先祖は、魔王に一体何を願っていたのだろうか。

第六天については、ここでは書ききれない色々のことがある。改めて時間のあるときに言及したい。
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私たちの祖先とアバター [これから日本の話をしよう!]

先日、テレビで放映されていた「アバター 3Dブルーレイ&DVDセット(2枚組) [Blu-ray]」を見た。

アバター 3Dブルーレイ&DVDセット(2枚組) [Blu-ray]

アバター 3Dブルーレイ&DVDセット(2枚組) [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • メディア: Blu-ray


あらすじをアマゾンから引用すると、

-------------------------
22世紀、人類は地球から遠く離れたパンドラで<アバター計画>に着手していた。この星の先住民ナヴィと人間のDNAを組み合わせた肉体<アバター>を創ることで、有毒な大気の問題をクリアし、莫大な利益をもたらす鉱物を採掘しようというのだ。この計画に参加した元兵士ジェイクは車椅子の身だったが、<アバター>を得て体の自由を取り戻す。パンドラの地に降り立ち、ナヴィの族長の娘ネイティリと恋に落ちるジェイク。しかし彼はパンドラの生命を脅かす任務に疑問を抱き、この星の運命を決する選択を強いられていく……。
-------------------------

という感じだ。

ようするに、先住民が住む場所にある高価な鉱物が欲しいがために、餌で釣って立ち退かせるか、それが上手くいかなければ、武力行使をする

そういうお話である。


この手のことは、歴史上の中で実際に何度も行われてきた。

人類の歴史は、この繰り返しだったといってもいい。

この映画の先住民は、アメリカ大陸におけるネイティブアメリカン(インディアン)を思わせるし、オーストラリア大陸で狩猟生活を営んでいたアボリジニの悲劇も同様だ。
最近でも-これは真偽不明であったが-米ベネズエラでアマゾン先住民虐殺の報があった。


では、日本はどうだったか?


「東の夷の中に、日高見国有り。
 その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。
 是をすべて蝦夷という。
 また土地沃壌えて広し。
 撃ちて取りつべし」

そう進言したのは東方諸国を視察した武内宿禰である。

鉄や金などを産出する豊かな山をもつ東国は、狙われることになる。


最大の戦いの1つは、やはり蝦夷のリーダー、アテルイによるものだと思う。これは現在NHKでドラマ化されている。高橋克彦氏による原作も文庫で出ていて、非常に面白いのでぜひ読んでもらいたい。このブログでも何度か紹介している。

火怨 上 北の燿星アテルイ (講談社文庫)

火怨 上 北の燿星アテルイ (講談社文庫)

  • 作者: 高橋 克彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2002/10/16
  • メディア: 文庫


蝦夷なんて、俺たちには関係ない?

いやいやいや、大アリだと思う。

私たちの祖先が朝廷の側にしろ、蝦夷の側にしろ、これらは複雑に混じり合っていると思う。捉えられた蝦夷は俘囚として、各地に住まわされた。反対に、東海・東国の人々は九州にも戦争に動員されて東北の地へ、或いは移住などもさせられた。似たようなことは関ヶ原の戦後や、明治維新で敗れた会津藩などでも起こっている。

我々はミックスされていると思う。

少なくともフォッサマグナの東側、東日本に住んでいる人なら、「火焔」を強くおすすめしたい。


さて、アテルイの戦いは平安時代、800年前後の話だが、それ以前はどうか?

思うに、大国主(オオクニヌシ)の国譲りや、神武東征で長脛彦(ナガスネヒコ)や饒速日命(ギハヤヒノミコト)のくだりは、やはりアバター的な侵略を思わせる。特にオオクニヌシの国譲りは、どう見ても・・・ねぇ・・・。


今は本当によい世界になったと思う。
平和だ。

この平和は、壊したくないと思う。

嫌だよ、戦だなんだと兵として動員されたり、野兵盗賊の類に略奪されたり、防人のように関東に住んでいるのに九州へ生かされて兵役につかされたり。そんなのは、嫌だよね。

この平和の礎の下には・・・
私たちの何代も何代も前のご先祖様の中には、理不尽な略奪や襲撃や簒奪にあった人々も多かっただろう。旧貴族でもない限り、多くの人のご先祖様は戦い、あるいは敗れ、土地を守り、あるいは酷使され、辛い目にもあって今があるのだと思う。

ともかく火焔はおすすめなので、是非読んでもらいたい。

火怨 上 北の燿星アテルイ (講談社文庫)

火怨 上 北の燿星アテルイ (講談社文庫)

  • 作者: 高橋 克彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2002/10/16
  • メディア: 文庫



火怨 下 北の燿星アテルイ (講談社文庫)

火怨 下 北の燿星アテルイ (講談社文庫)

  • 作者: 高橋 克彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2002/10/16
  • メディア: 文庫



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今だから読む。富士山噴火と災害復興の物語。 [これから日本の話をしよう!]

手抜き汚染という問題が勃発している。
私たち国民の血税から、数千億という大きな資金を投入して行われている除染事業。大手のゼネコンから2次3次4次5次と気が遠くなるほどの下請けが入り、最終的に除染はまともに行われず・・・という結果だ。


私はこれを見て、1冊の本を思い出した。
そしてこの本は、できるだけ多くの日本国民に読んで欲しいと、切に願った。
怒る富士〈上〉 (文春文庫)

怒る富士〈上〉 (文春文庫)

  • 作者: 新田 次郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2007/09/04
  • メディア: 文庫


この「怒る富士〈上〉 (文春文庫)」という小説は、江戸時代が舞台である。最後の富士山の噴火、宝永の大噴火による災害がメインテーマとなる。そこで繰り広げられる権力者たちの振る舞いは、先の原発&東日本大震災の復興の姿と、とてもよく重なる。

この小説には人間が描かれている。硬直してお役所的になってしまった、日本人のダメな側面が描かれている。


この小説は上下巻に分かれていて、もちろん時代小説という体裁だ。時代小説というのは、普段読まない人にとって少し敷居が高い。面白いのだろうかと心配に思うかもしれない。表紙の画像を見て、古臭そうと感じるかもしれない。

大丈夫。
この本は、純粋に面白い。時代小説への慣れは関係なく読める。でありながら、時代小説ファンも大満足できる作品であると思う。

本書を読むべき理由、おすすめの理由を3つ紹介しよう。


1.来たるべく富士山噴火に備える
多くの人が、富士山の噴火について正しくイメージできていないと思う。桜島や、少し前の三宅島の噴火をイメージしているかもしれない。しかし、まったく違う。噴火の規模が違うのだ。宝永の噴火と同じ規模の噴火が、今この日本を襲ったとしたら、この国はあまりに大きなダメージを受けることになる。時代が変わる。この小説を読めば、それがイメージできる。原発除染の体たらくを見るに、富士山噴火の後の復興は、遅々として進まないものと推測できる。
近いうちに来ると言われている富士山の噴火。そして本書は古い資料をもとに噴火の様子が描かれている。備えるためにも、読んでおくべきだと思う。


2.今と変わらない利権や政治活動
この小説を読めば、きっとこう感じるはずだ。
「あれ?デジャブ(既視感)??」
富士山噴火の後の復興が遅々として進まない。災害を政治に利用し、私利私欲に走る政治家。そう、今起こっている問題そのものが、この小説に書かれている。この小説を読むことによって、今の問題がより鮮明に映るはずだ。
そして、部分的には、非常に残念なことに、今の方が江戸時代より遅れている。


3.人が、人生が書かれている
純粋に面白い小説だと思う。仕事の進め方、リーダーシップのあり方、男女関係の難しさ、人生の勝機のつかみ方、あるいは転落の様。色々な人間が描かれていて、それが面白い。


できるだけ多くの人に読んで欲しい本だ。
読む価値のある本だ。

いや、日本人であれば、読むべき本だと思う。
今こそ。今だからこそ。切に願う。
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大恐慌という名の茹で湯 [これから日本の話をしよう!]

もしかしたら、私たちは既に大恐慌の只中にいるのかもしれない・・・。つまり、今は静かなる大恐慌の中に私たちはいる・・・。
そう感じたのは、この記事を読んでのことだ。
<フランス人の半数近くが自分のことを「貧しい」と思っているか、すぐに貧しくなるかもしれないと恐れているとの調査結果が6日、発表された。>

この静かなる大恐慌という言葉は、集英社から出されている新書のタイトルでもある。読んでみてなるほど面白いと感じ、確かに予感させるものがあると思っていた。しかし、今まで本当の意味で腹に落ちていなかったんだなぁ・・・。このフランス云々のニュースを見て、私は“静かなる大恐慌”の中にいることを、リアリティを持って感じられた。

静かなる大恐慌 (集英社新書)


静かなる大恐慌 (集英社新書)

静かなる大恐慌 (集英社新書)

  • 作者: 柴山 桂太
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2012/09/14
  • メディア: 新書


世界は「静かなる大恐慌」に突入した。危機的なのは経済だけではない。 国際政治は一九二九年の世界大恐慌をはさんだ、ふたつの世界大戦の時代と同じコースを歩み始めた。 グローバル化が必然的に招く、社会の不安定化と経済の脆弱化。それによって国内でも世代間、産業間、都市対地方などの対立が激化している。

茹で蛙という喩えがある。熱湯にカエルを入れると熱くて飛び出るが、水にカエルを入れて徐々に茹でていくと、そのうち気がつかずにカエルは茹で上がって死んでしまうという、有名な喩えだ。
過去の大恐慌が熱湯だったとしたら、今は徐々に茹でられているようなものかもしれない。今の温度は何度だ!?

EUはまさに身内・周囲に火種をいくつも抱えていて、貧困への恐怖は日本よりも身近に感じるものがあるのだろう。

ニュース記事には、こうある。
「もっとも貧困の危険を感じていたのは会社員、肉体労働者とフリーランス契約者だった。一方、最も危険を感じていなかったのは管理職や専門職に就いている人たちだった。」
どちらも、大企業の論理から言えば、すぐに切り捨てられやすい職種といえる。
ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉」では、フリーランス(ミニ起業家)が活躍する未来の舞台を見せていたけれど、恐らく活躍できるのは本の一部。ワークシフトで書かれていた“孤独”云々以上の、経済苦という現実的な驚異がフリーランスたちを襲うのではないか。


静かなる恐慌・・・。
金融や財政の困難に対する対処能力は大幅に向上している。だから、本来であれば大恐慌に陥っていてもおかしくない状況なのだが、何とか延命されている。しかし、危機はさったわけでなく、ゆっくりと進行しているだけだ。

静かなる大恐慌 (集英社新書)」で描かれている世の中の状況というのは、あまりにも“現在-いま”にマッチしすぎている。本書が書かれたのは中国の反日暴動の前だが、別に言い当てられたわけではないが、それに等しい状況になっていると思う。

私たちの行く道の先には、貧困という名の巨大な山が見える。
はたしてこれを避けて通れるのか、この位置からではハッキリとは見えない。しかし、このまま進んでいけば、おそらくあの山にぶち当たるだろう。
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日本人にしか分からない行動原理 [これから日本の話をしよう!]


年末ジャンボ宝くじが発売された。2012年の今年は1等前後賞あわせて6億円だという。1等が4億円、前後が各1億円。人生を2回楽しめる、大金である。

発売日の今日(26日)、宝くじの聖地といわれる銀座や有楽町では、さっそく大行列ができたようだ。有楽町マリオン前では3時間待ちだという。多くの会社はこの辺が給料日だろうから、そのうちの何割かを早速吸い上げる。

有楽町や銀座に列ができるのは、過去、その売り場で大当たりが何度も出ているからだ。しかし、確率論で考えれば、この売り場に並ぶのは不毛である。なぜなら、当たりが出ているのは、それだけ売れているからだと思えるからだ。買う場所なんて関係ない。売れている枚数が多ければ、それだけ当たりが出る可能性が高いし、それだけ売れていれば、競争率(?)もその分、高い。


しかし、“当たりが出ると言われている”売り場に、並びたくなる気持ちもわかる。


日本人はとかく、ゲンを担ぐ。井沢元彦さんのいうところの、言霊と同じだ。
明日飛行機で旅行に出るという人に、「飛行機が落なければいいですね」とは冗談としても言えない。普通に考えれば、1人の人間が言った言葉が現実になるなんて、あるわけがない。しかし、言葉に出すこと自体をさける。縁起でもない、というやつだ。

室寿ぎ(むろほぎ)というのがある。
新築の家を、言葉で褒めることだ。これはマナーとも言えるかもしれない。
このような言葉のゲン担ぎは、結婚式での祝儀の札数、禁句、受験時期での禁句など、色々なところで見かけることがある。


以前、何かのコラムで読んだのだが、
某宅を訪問したとき、営業マンがいて、その営業マンが当家の子供を「素晴らしいお子さんですね~」と褒めていいた。それを見て、そんな媚びているような人は信用できない、と感じた・・・
そんなことが書かれていた。確かにその営業マンは売らんがために大げさに物をいったのかもしれない。しかし、大げさにものを褒めること自体、悪いことではない。


今の時代は自分に関心が行き過ぎているがために、褒められても、それが本心かどうかが気になるのかもしれない。

そんなの、本心でいったら大したことのない小さな人ばかりですよ。

大げさに褒めるのは、縁起のいい言葉を並べるのと同時に、そうなって欲しいとの期待もあるのだろうと思う。

言う人によって、印象が変わるかもしれない。田舎の年老いたお婆ちゃんが、久しぶりに顔を見せた孫に「ずいぶんと、立派になって」と言えば、孫としても背筋を伸ばしたくなるだろう。


ゲン担ぎはロジカルに考えれば、不毛な行為であり、時間の無駄でもある。

しかし、日本人であれば、ゲンを担ぎたくなるだろう気持ちはわかる。
考えてみれば無駄だと思うし、自分はそんなことはしないかもしれない。しかし、気持ちはわかる。

でも、もしかしたら、そう遠くない将来、そんな気持ちはまったくわからない、という日本人が出てくるか、或いは多数派になるかもしれない。

日本人であれば理解できた小さな風習、他の外国人などには理解できない行動や考え方。

もしそんな世の中を、私が見ることができたとしたら、改めて“日本人であるとは何だろう”と考えるだろう。
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日本人のルーツを考える・・・3つの古代王朝と日本國、渡来系DNA&Y染色体D2 [これから日本の話をしよう!]


大変興味深いニュースだ。
<<日本人の遺伝的な系統はアイヌ(北海道)と琉球(沖縄県)が縄文人タイプで、本州・四国・九州は縄文人と弥生系渡来人との混血とみられることが、東京大などのゲノム(全遺伝情報)解析で分かった。(中略)日本人の成り立ちについてドイツ人医師のベルツは明治44年、身体的特徴の共通性からアイヌと琉球は同系統と指摘。人類学者の埴原(はにはら)氏は平成3年に「二重構造説」を提唱し、本州などでは弥生時代以降に中国や朝鮮半島からの渡来人と先住民の縄文人が混血したが、アイヌや琉球は遠いため混血が少なく、縄文型の系統が残ったとした。

 今回の結果はこれらの仮説を高い精度で裏付けるもので、日本人の起源を探る上で貴重な成果という。>>

総研大と遺伝研の斎藤成也教授は「ベルツの説が101年後に最終的に証明された。本土人は大ざっぱに言えば、縄文人2~3割と弥生人7~8割の混血ではないか、と言っている。

古代の日本は、朝鮮半島とはかなり密接だった。以前、このブログでも書いたが(隣の国について語ろう。)、古代の一時期は、日本の人口の3分の1を渡来人が占めていたという話(武光氏)もあるし、渡来人を当時の未開の地に住まわせ、開拓を任せたなんて話もある。渡来人系の地域名称も多く残されている。

また、かつて、倭人とは朝鮮半島の一部を含む範囲で呼ばれていたともいう(倭寇のことではない)。

その辺のことを考えると、かつての倭国は、朝鮮の一部も含めた広域国だったのではないかと感じる。というより、ヤマト朝廷へと繋がる王朝の、最有力者の一部は、朝鮮半島と縁が深かった、という可能性もあると思う。

古代に任那があったし、百済の支援のために白村江で戦うなど、朝鮮半島への執着がある点でも、それは感じられる。これはもちろん私の独自の論ではなく、有名なところで言えば「逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎 (小学館文庫)」などでも語られるところでもある。
そう考えると、天孫降臨の記紀神話もすっきりするという話だ。

逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎 (小学館文庫)

逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎 (小学館文庫)

  • 作者: 井沢 元彦
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1997/12
  • メディア: 文庫


話は横道にそれるが、私自身もヤマト王朝についての考えがある。卑弥呼の邪馬台国が連合国であったのと同じように、ヤマト朝廷も2~3の王朝があったのではないか、というものだ。

1つ目は、奈良の三輪を本拠とする、大国主の出雲王朝。
2つ目は、アマテラスの王朝(九州、もしくは熊野)。
3つ目は、後のヤマト朝廷の本流となる王朝(九州、もしくは大和、もしくは渡来)。

上記のいずれか、もしくは別の4つ目があるのかわからないが、そこに渡来系の流れを持つ王朝があってもおかしくないと思っている。かつて倭人が朝鮮の先端を含む広域で活躍する人々をさしていたことから、任那に拠点を持つ倭人は、交易のとてつもない利点を持っていた可能性がある。この倭人の軍団は、日本列島から任那を抑えた一族なのか、逆に任那を本拠としていた一族なのかはわからない。がこの拠点を持つ意味は大きかったことだろう。その一族がそのまま王朝の1つになったのか、それとも王朝が従えた有力者として活躍したのかはわからない。


さて、このように複数の王朝があったと考えると、大国主や天照が、島根の出雲や三重の伊勢へと、大和から遠く離れた地に祀られたのも理解できる。特に伊勢神宮については、皇祖であるにも関わらず、天皇の公式参拝は明治天皇が始めてで、それ以前には大海人皇子や持統天皇の遥拝しかないことも、理解できる。

最近、奈良県の桜井市の古墳で、東国と共通することが多いということがわかり、この地の有力者は東国との繋がりが深いと考えられている。であれば国津神、つまり天孫降臨以前のこの地を支配していた国津神の王である大国主が、桜井市を根拠としていた、という理由にもなるのではないか。

ところで、考えてみれば倭国はヤマトになり、大和になり、日本になるわけだが、「ワ」と「ヤマト」と「にほん」という変化は、なんとなく唐突に過ぎる気はしないか。連続性がないというか。


日本というのは、「日出る処の」から来ていると思うが、不思議なのはヒノモトという地名が、東北の方で使われている点だ「日の本」「日下」というのは、古くから蝦夷の地、東北のほうで使われていた。

何故??

ヤマト朝廷の歴史は、東へ東へと支配地を伸ばしていく戦いだった。
神武東征やヤマトタケルの東征物語などがそれで、またもっと古くは、大国主が天孫から国譲りを迫られたとき、反対した息子は腕をもぎ取られ、諏訪(長野)まで逃げている(追われて、結局服従させられた)。


ところで、倭国ヤマト朝廷が対外的に「日本国」を名乗ったのは、700年前後だと言われている。

倭国伝によると、倭国の使者が「日本国」を名乗った時のやり取りが記されている。周の役人から、「え?日本?だってお前たち、倭国って国じゃなかったっけ?」と言われた時のやり取りである。

「日本国は倭国の別種である(日本國者倭國之別種也)」または、
「日本はもとは小国で、倭国の地をあらわす(日本或云日本●小國併倭国之地)」


話が飛びすぎた。
私は大国主が縄文人だと言いたいわけではない。

それとこれとは別で、恐らく本州にいた縄文人は、僻地へと追いやられたと思う。
例えば常陸風土記の、イバラキの一節なんて、それを表していると思う。

<茨城という名は、一説に、賊を討つために茨の城(柵)を築いたことに由来し、『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。>(ウィキ茨城県由来

この賊と書かれているのが、国巣(クズ)と呼ばれた、山に住んでいた人々で、穴を掘ってそこに暮らしていた。人(ヤマト)がくると穴に隠れ、過ぎると穴から出て遊んでいたらしい。

上の事例は残酷だが、もう少し緩やかな両者の浸透があったと思う。こういった人々が、縄文系であり、私たちの先祖なのではないかと考える。


冒頭のニュースに話を戻そう。

縄文の血はアイヌや琉球に濃い。そして、本土の人間は、「縄文人2~3割と弥生人7~8割の混血」で、弥生人は渡来系の影響を持つ。渡来系とは、朝鮮や中国だ。

日本人のルーツについてよく指摘されることの1つに、日本人独自の特色として、父系のY染色体D系統というのがある。これは、お隣の朝鮮や中国人にない特徴であるという。
DNAのことはよくわからないので間違いがあるかもしれないが、

D系統(D2系統)
・日本全国 37%(野中、水口 2007)
・アイヌ 90%
・北琉球 39%
であることを見ると、前述の、「縄文人2~3割と弥生人7~8割の混血」というのと大きな相違はないのではないか、と感じる。

ちなみに、私としては西高東低の差別問題も、この問題と合わせて気になるところである。東国では実感があまりないが、西の方は強いと聞く。少し前の話だが、関西出身のサントリーの社長が、首都移転問題の議論が盛んだったとき、テレビで東北に対する差別発言をしたことがある。
仙台遷都などアホなことを考えている人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲の産地。文化的程度の極めて低い
ちなみに熊襲ではなく、蝦夷の間違いである。彼らのような有力者が仮に支配者となった場合、一般人との混血は極めて少ないだろう。

ところで、倭人の1部とされる任那の朝鮮人と、その後の朝鮮半島で主流となった朝鮮人が一緒かというと、朝鮮半島の複雑な歴史をみると、それは疑問だ。任那や百済の系統がどれだけ残っているのか。

とりとめもなく色々と書いてしまったが、上記は1つの推測だ。単なる可能性を書いているだけであって、リアリティとしてはイマイチかと、本人でも思う。

それにしても今回の発見は興味深い。
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ハロウィンの由来とは!?日本のお盆や節分との共通点は? [これから日本の話をしよう!]


10月31日はハロウィンだ。
ヨーロッパで発生し、アメリカで“子供の大晦日”として大成して日本にも輸入されたこのイベント。日本でもすっかり定着しつつあり、イベントや店の販促でよく使われている。

ハロウィンの説明として、「日本のお盆のようなもの」という言い方を見かけることがある。
確かに、と思う一方で、だがしかし、と感じる部分もある。

そこで、ハロウィンというイベントと日本の行事との類似性・相違点について考えてみたい。

まず、ハロウィンの由来について。
そもそもハロウィンとは、どんな日なのか。


ハロウィンはケルト文化やキリスト教など、少なくとも3つ以上の文化習俗が混合されてできている。
現在のハロウィンは、イベント、つまりお祭りとしてアメリカで花開いた。


よく言われるのが、「ハロウィンとは万聖節(ばんせいせつ)、諸聖人の日の、前夜祭だ」というもの。
これはキリスト教の、主にカトリック教会を中心とした祝日の1つで、聖人や殉教者を記念する日だ。
この諸聖人の日が11月1日、その前日の10月31日が前夜祭であるハロウィンとなる。
ちなみに11月2日は死者の日(万霊節)で、死者の魂のために祈りを捧げる日となる。

ハロウィンのこの日は、魑魅魍魎が私たちの周りを闊歩する日だ。
精霊や悪霊がそこかしこにいる。

だから、悪霊にイタズラされないように、人間だとバレないように変装する。

さて、このハロウィンだが、そもそもはキリスト教の行事ではない。
キリスト教が広まる過程で、他の文化を飲み込む流れの中で合わさったものだ。


では、ハロウィンの起源な何だったのか。
時代は2000年以上の昔にさかのぼり、古代ヨーロッパのケルト人による、宗教行事に由来する。


ケルト人は多神教で、ドルイド教という土着の信仰があった。
ドルイド教では太陽や樹木など自然に対して霊的な見方をし、また輪廻転生の考えを持っていたと言われる。

ケルト民族では、新年の始まりが11月1日。
1年の終わりが10月31日だった。
この日に1年の終わりに感謝し、新年を祝う祝祭「サウィン祭」を行ったが、これがハロウィンの原型だ。


このサウィン祭は、収穫を祝う収穫祭でもあり、また死者の祭りでもあった。
11月1日から新年が始まるが、これは同時に冬の始まりでもあり、日が短くなる暗闇の時期の始まりでもある。
それが死を連想させたのかもしれない。
この日、死の神がその年に亡くなった人々を集め、生まれ変わり先を決めるとされていた。
ゆえに死者が死後の世界へ旅立つために集まり、地上をさまよい歩くとともに、死者だけでなく、悪霊や精霊なども町中を漂う。

この“死者との境界がなくなる日”というあたりが、「日本のお盆のようなもの」という説明につながるのだと思う。それについては後述しよう。


さて、サウィンの祭りでは、前夜にドルイドの祭司が丘に集まり、大きなかがり火を炊く。
悪霊は火を嫌うので、つまりは悪霊を払うための火だ。
そして収穫した作物や動物をささげる。

この捧げ物の動物だが、これは祭に合わせて牛などの家畜を解体して皮をそぎ、その皮を祭りのあいだ身につけていたと言われている。

というのも、周囲には悪霊などがウヨウヨしているわけで、動物の皮をかぶることによって悪霊の目をごまかせるとの考えらしい。動物の皮をかぶるだけでなく、覆面をかぶったり、顔を黒くぬったりもしていた。顔を黒くぬるのは、幽霊や悪霊を表現しているらしい。

それだけでなく、男装女装をするといったこともしていたらしい。
男装女装の意味は、正直わからない。異性に化けても人間とわかり、悪霊の目はごまかせないだろう。この事例はどこかの時点で祭りが変容したのか、あるいはサウィンの日は生死の世界だけでなく、様々な境界線があいまいになる日である、ということなのかもしれない。


ともかく、この変装が後のハロウィンの仮装に繋がる。

ちなみに、ドルイドの祭司の姿は、我々が思い浮かべる魔法使いの姿だったらしい。
それがハロウィンの仮装で人気のある魔法使い・魔女のイメージにつながるのかもしれない。

ところで、サウィン祭について、死者を偲ぶための日でもあった、という説明も目にする。
数百年前には、サウィン祭で家族が先祖のために食事を供えていたという。
しかしケルト人が輪廻転生を信じていたとすると、それはおかしなことだ。
どこかで変容したのだろうと思う。


さて、このサウィン祭に、ローマの収穫祭が融合する。
この収穫祭はローマで11月1日に行われていた、果実の女神ポモナをたたえる日だ。

ハロウィンにはリンゴを使った遊びや占いが多い。例えば、
・たらいなどに水を入れ、りんごを浮かべる。それを口でとるゲーム
・夜中に若い娘が鏡の前でリンゴの皮を向いていると、鏡に将来の伴侶が映る
・真夜中に鏡の前で、後ろを振り返らずにリンゴを食べていると、鏡に(同上)

これらは女神ポモナから来ているのだと思う。
なぜかというと、リンゴはポモナの象徴だからだ。

さらにはキリスト教が混じり合っていく。
7世紀、ローマ教皇ボニファティウス4世が11月1日を諸聖人の日と定める勅令を出した。
諸聖人の日の前夜、オール・ハロウズ・イブ(All Hallow's Eve)が後にハロウィン(Halloweem)になった。

やがてアメリカに持ち込まれ、それまでカブを用いられていたのがカボチャに変わり、現在へと至る。


さて、ハロウィンもしくはサウィン祭について、特徴をまとめる。
①新年の前の祭りである
②収穫祭である
③死者の祭りである(死者が街をさまよう)
④悪霊を払う火の祭典である
⑤様々な文化が混じり合って現在に至っている

ここで冒頭の「日本のお盆のようなもの」というところに戻ると、最大の類似点は③の死者の祭りである、という点になると思う。

お盆はご存知のとおり、祖霊を祀る日本の伝統行事である。
このお盆の期間は、祖霊、つまりご先祖様がやってきて、私たち生者とともに過ごす。

言い方を変えれば、死者があちこちにいるのがお盆であり、私たちは盆踊りを踊る。

類似点は、この死者が周囲にいる、という点だろう。

相違点は、死者に対する生者のスタンスである。

前述のとおり、ケルト人(ドルイド教)は輪廻転生を信じる。
だからハロウィンの日、来るとしてもその年に死んだ者のみで、家族がくるわけではない。
そして悪霊を払うためにかがり火を焚き、変装したりする。
つまりシャットアウトである。

一方の日本。
日本も、仏教という側面で考えると、輪廻転生である。49日を過ぎれば生まれ変わるはずなので、祖霊を迎え入れるというのはおかしい。
しかし、祖霊を、というのはもともと日本古来の信仰で、後から仏教と混同・習合されたわけだ。
お盆にナスやキュウリで作った馬と牛を盆棚に飾る。そして提灯に火を灯す。
この火は祖霊に対する目印で、行きは馬に乗って早く来てもらい、帰りは牛にのってゆっくりと帰ってもらう。
お盆の期間は食事も用意し、一緒に食す。

サウィン祭のかがり火が例を払うに対し、日本の火は迎え入れるために使う。
この霊の対象と、霊に対するスタンスが最大の違いだと思う。

悪霊を払う、とうい点でいえば、それに該当する日本の行事は追儺(ついな)だろう。
追儺とは大晦日の宮中行事であり、鬼やらい、鬼を払う行事である。
つまり節分のことだ。

現在の節分は、立春の前日である2月3日に行う。
昔のこよみでは、2月の立春近辺が新年のはじまりだった。

収穫祭という点で見たらどうだろう?
日本の収穫祭である、新嘗祭はいつかご存知だろうか?

11月23日である。
そう、勤労感謝の日だ。

もう一度、ハロウィン(サウィン)祭の特徴を再掲しよう。
①新年の前の祭りである
②収穫祭である
③死者の祭りである(死者が街をさまよう)
④悪霊を払う火の祭典である
⑤様々な文化が混じり合って現在に至っている

ここに日本の伝統行事を照らし合わせてみよう。
①新年の前の祭りである・・・日本でいう大晦日
②収穫祭である・・・日本でいう新嘗祭(勤労感謝の日)
③死者の祭りである(死者が街をさまよう)・・・日本でいうお盆や正月
④悪霊を払う火の祭典である・・・日本でいう追儺(節分)
⑤様々な文化が混じり合って現在に至っている ・・・日本も古来の民俗や神道、仏教などが混じり合っている

ところで、ケルトのサウィン祭の説明に、動物を供えるということを書いた。
動物を解体し、神に捧げる。

実はこれ、日本とも共通する部分がある。

有名なのは諏訪大社の御頭祭だろうか。
これは凄い光景で、鹿の首や、うさぎの串刺しなどが供えられる。
これが凄い数で、鹿の数は70~80頭はあり、うさぎのあ尻から頭にかけて串刺しにされている。
もちろん現在は行われていない。
こうした動物の生贄については、日本各地で見られる。
詳細は別の機会に書きたいと思うが、農耕の収穫祭と生贄に強い関連性があるとの指摘もある。
であれば、サウィン祭で農作物と共に動物を供えるという点と、類似する点があるかもしれない。


さて。
以上から、「ハロウィンと日本のお盆は似ているが、本質的には異なる」という結論を出したいと思う。
あえて言えば、ハロウィンとは日本のお盆や大晦日や正月や節分などをまとめてやるような行事で、
しかし、死者に対するスタンスが大きく異なる。



ハロウィンでは、
「トリック・オア・トリート (Trick or Treat) 」お菓子をくれなきゃイタズラしちゃうぞ、
と言って子供たちが各家庭を回ってお菓子を集める。

これの原型は、その後変質したケルト人の習慣
(変装してパフォーマンスしながら各家庭を周り、その見返りとして食糧をもらっていた)
やイタズラ、キリスト教の物乞いの習慣からの発展だと思われる。

子供たちにとってはお菓子の稼ぎ時だが、
日本でも「子供は7つまでは神の子」と言われ、神様へのお供え物をとって食べてもしからないように、
という考え方がありました。
なぜ7つまでは神の子なのか。
それは昔は死亡率が高かったから。
昔の子供にとって、生死の境界はないようなものだったのだな。

神様に近かったわけです。

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日本と日の本 [これから日本の話をしよう!]

日本人として、日本と日の本の違いははっきりと認識しておきたい問題だ。
問題だ、といっても、何か話題になっているわけでもないし、関連した時事テーマがあるわけでもない。ただ単に、私が急に問題としたくなっただけである。


日出処の天子、ということで、日の出てくるところは日の元なわけだ。日は東から昇るから、東の国ですよ、というわけだ。どこから見て東?もちろん、中国だろう。だいたい700年代だとして、大和の朝廷が日本と国の名乗りを上げる。しかし、大和から見れば更に東があるわけだ。

どこか。

蝦夷たちの住む地域だろう。日の本といえば、東北を指す。

あれ?と思う。

蝦夷たちの住む東北が日の本?

なのに、大和朝廷の倭国が、いかにして日本に・・・。


征夷大将軍はもちろん東北を攻めるための役職だ。征夷は東夷を征伐する将軍。東夷はもちろん東国、蝦夷。東の国だ。

これが中々うまくいかない。歴史のなかで徐々に北上し大和の勢力範囲を広げるが、ようやく北海道までたどり着いたのは、つい最近の話といってもいい。

侵攻を繰り返すなかで、坂東、つまり関東地方の人間たちが兵として送り込まれ、支配した土地には移住させられたりもした。その関東の人間たちだが、そもそもはもちろんそこに住んでいた東国の勢力がいて、それが追いやられたわけだ。征服された関東には、やはり多くの人が移住させられたわけだ。

天孫降臨し、神武東征やヤマトタケルの東征の時代から、それは徐々に西から東へと進められてきた。

話はそれるが、同じ関東でも、利根川流域の東西で力関係がかなり異なるとの指摘もある。こちら側と向こう側だ。かつては霞ヶ浦をもつなぐ巨大な水辺だったはずで、縄文海進の海の水が後退してもなお、今からは想像もできないくらいの大河だったのではないか。それがあちら側とこちら側を分けていた、はずだ。

それが更に北に移ると、山が谷が壁となる。その天然の壁が、長らく蝦夷を守っていたに違いない。

日の本は大変興味深い。
タグ:日の本 日本
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未来の闇を突き抜ける、7人の盲人 [これから日本の話をしよう!]

私の身の回りの状況も、そして領土問題や政治の停滞といった日本の状況も、どうも視界が悪い。

病気で例えると、ぶっ倒れるほど具合が悪いわけではなく、しかし、長期間だるい。息苦しいような胸の苦しさと、長引く不調で、自分は何か悪い病気にでもかかっているのではないか、そう感じてしまうような状態に似ている。

不安ゆえ、先を見通そうとしても、靄がかかっているようで、まるで見えない。残るのは不安。だからこそ、余計に未来を見通したい。

ということで、最近読んだ本に、「静かなる大恐慌 (集英社新書)」がある。

静かなる大恐慌 (集英社新書)

静かなる大恐慌 (集英社新書)

  • 作者: 柴山 桂太
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2012/09/14
  • メディア: 新書


本書を手にとったのはタマタマだが、購読したのには理由がある。

少し前にこのブログで紹介した、「ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉」だが、あれを読んでいて疑問に感じたところがある。

この本は、2025年に向けた、働き方革命をテーマに書かれている。
つまりは未来を予想する本の一種だ。

そこに書かれている未来は、ネット環境とグローバル化が進み、それに伴って私たちの働き方も変わる、と予想されている。

しかし、そこに書かれていることの幾つかは、すでに現在、出現している。例えば、SNS、フリーランサーの増加、マッチングサイトの増加、途上国の台頭など。

つまり、“本書の指し示す未来は、あくまで現状から真っ直ぐ進んだ直線上の未来”が描かれている。

そこで私が思ったのが、「果たして未来は、この通りにまっすぐ進むのだろうか?」という疑問だった。

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

  • 作者: リンダ・グラットン
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2012/07/28
  • メディア: 単行本



「静かなる大恐慌」には、1つのリスク・シナリオが書かれている。
それは、グローバル化した資本主義が抱える問題によって生じる問題。そのリスクシナリオだ。

本書では、現在を第二次グローバル化とし、過去にもグローバル化の、現在と同様の動きがあったと指摘する。それは世界大戦前。それを第一次グローバル化とし、この第一次は、大恐慌と戦争という結末へ行き着いた。

現在の第二次グローバル化も同様に問題を抱えているが、昔よりも政府・各国機関の対応が高度になっているため、大きな大恐慌が発生していないだけだ。しかし、実はいま、世界は恐慌に飲み込まれつつある。しかし、この恐慌があまりに静かであるため、気がついていないだけである、という指摘だ。

まるで「茹で蛙」のようだな。
有名な喩えなのでご存知の人も多いと思うが、茹で蛙とは、カエルを熱湯に入れれば熱くてすぐに飛び出る。しかし、水にカエルを入れて、徐々に熱していくと、カエルは気がつかず、茹でられて死んでしまう、というもの。

私たちが、この静かなる恐慌に飲み込まれつつあるのに気がついていないのだとしたら、これは本当に恐ろしいものである。徐々に病魔に蝕まれるようで、怖い。

「ワークシフト」と併せて本書を読むことで、未来を考察するのにバランスがいい。ぜひお勧めする。


さて、とはいえ、やはり未来は相変わらず見通せない。
それは当たり前かもしれない。
未来なんて簡単にわかるはずがない。
わからなくてもいいのだが、自分としては、「ま、だいたいこっちの方だろう」と見当をつけて、それに向かっていきたいと考えている。しかし、その見当がまだつかない。


しかし、この2つの本を読んでいて、1つ共通点があることに気がついた。

ワークシフトでは、後ろの方、350ページのあたりに、「限界公用の逓減の法則」という言葉が出てくる。

これは何かというと、あるものを得る数や量が増えるほど、それに価値を感じなくなることを言う。しかし、この法則は、お金や消費には当てはまるが、経験や友人といったものには当てはまらないという。例えば、所得がどんどん増えても、やがて所得増の喜びは薄まるが、技能や友達は増えれば増えるほど新たな喜びが増す。

ワークシフトでは、そういったものの重要性を強調している。同時に、好きなことを仕事にすることが、未来の厳しい環境においては最大の保険になるとの指摘、またコミュニティに参加することの重要性が指摘されている。


いっぽう、「静かなる大恐慌」でも、最終章のP198において、ケインズの言う「投資の社会科」という言葉を、著者独自の解釈も加えた上で、こう紹介している。

・物的資本の投資だけが投資ではない
・共同体に存在する、目に見えない規範や互酬のネットワークを一種の資本と捉える
・共同体の人間関係も資本であり、井戸端会議や物の貸し借りなどの行為は投資である
・こういった社会関係資本が蓄積された地域ほど、治安や教育・福祉などの面で恩恵を受けている

ゆえに、「自分の持っている一部の資産・・・すべての人間が持っている時間という資本・・・を、賃労働に使うのではなく、共同体のためにつかって何かしらの長期的なリターンを得る。これも投資」である。こういったことにまで考え方を拡張させることが、今後の低成長時代を考えるにあたって、重要であるとしている。


どちらも無形のもの、無形の資本の重要性を説いていている。

それ自体は目新しくないかもしれない。そして、これは即効的な解決策ではない。しかし、私たちは今、大きな壁にぶつかっていて、これを乗り越えるためには、今までのやり方ではダメということだ。

7人の盲人の話は聞いたことがあるだろうか?
7人の盲人が道を歩いていて、ふと、何かに道を遮られた。これでは前に進めない。いったい何がこの道を塞いでいるのだろう?

1人は言った。「目の前に木があるぞ」
別の1人が言う。「いやいや、木ではなく、ヘビのようだ」
「いや、大きな葉だろう」
・・・

この道を塞いでいるのは大きな象である。盲人たちは、それぞれが自分が手で触った部分を説明している。目の前を塞いでいるのが象だと分かっていれば、その障害を取り除くいい手立ても考えられよう。

果たして盲人たちは、どうしたら解答にたどり着けるだろうか。
あるいは、道を通るという目的を果たすことができるだろうか。

「群盲象を評す」とも言われる寓話だ。


どうも、未来の世界は厳しいようだ。
その厳しい世界を生き残るためには、何らかのセーフティが必要だ。
それが無形の資本、共同体であったり、友人や家族関係であったり、人と人の繋がりであったり、あるいは精神的な高まり、安定だったりするのかもしれない。


私たちはこれから暗闇の中を行く。

見えない中で一人、突き進むか?
それとも・・・。
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福島の農家さんへの提案 [これから日本の話をしよう!]

昨日、報道ステーションでJAが脱原発との内容をやっていた。

とくに東北の、福島の農家の皆さんは、原発にかかわる“風評被害”に苦しめられている。


私はこの“風評被害”という言葉がどうにも嫌いであまり使いたくないのだが、農家さんたちの苦しみは理解できるし、共感する。

今回の背景には“恐怖”という目に見えない感情がある。
数値的に安全だということになっても、以前のように消費が戻るかは不透明だ。

感情が問題なのだから、「数値的に大丈夫だと言っているだろう。食え!!」と言ったって、それは無駄な努力だ。元気のない人に元気を出せというのと、同じくらいの無駄な労力だ。

しかし、その恐怖の気持ちもわかる。


が、わからないことが1つある。


それは、都心でもよく見かける、路上での食べ物の販売だ。

軽トラで果物を売っている場合もあれば、オフィス街ではお弁当を売っていたりもする。

果物の場合はいかにも産地直送で農家さんが売りに来ているようにも見えるが、軽トラのナンバーは都内のものだったりする。

また、お弁当の販売であれば、どこの誰ともわからない人がどのような衛生状態で生産し、どんな食材を使っているのかまったくわからない状態で売っている。お店などであれば、それなりの資金や保証が必要だし、初期投資もかかるので簡単に雲隠れできないのはわかっている。また、それなりの衛生基準も保健所で定められている。が、お弁当売りはそうではない。どこかから来て、どこかへ帰っていく。明日必ず来る保証もない。

果物売りもお弁当も、どちらもそれなりの商売になっているようである。

なのに、福島の産物は売れないのか?

路上で買っている多くの都心のビジネスパーソンたちだったら、気にしないのではないか。オフィス街の人々は、産地を気にしないと結論づける。そうでないなら、余程のバカということになるが、それはないだろう。


ということで、いっそのこと、販路を都心に絞ってはいかがだろう。

福島の農家で何台かの車を調達し、移動販売としてオフィス街でゲリラ的に販売するのだ。いや、車の調達は都内でしたほうがいいかもしれない。いっそのこと、福島の農家連合(?)で都内に販売会社(LLCとか)を設立する。車両の調達もこの都内の会社で行う。
この会社で1つの移動販売ブランドをつくり、販売するのだ。仕入れは福島の農家。野菜の販売、果物の販売、加工品の販売、お弁当の販売など幾つかのカテゴリに分けて、オフィス街で販売しても良し。住宅街を回ってもよし。通販してもよし。首都近郊には意外と孤立した高齢者宅も多いので、移動販売は喜ばれるかもしれない。

もし聞かれたら「福島産であること」を素直に伝えればいい。不誠実はよくないからな。でも積極的にアピールする必要は、ないと思う。


結構いい案だと思うのだが、どうだろう??
駄目かな・・・。
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