SSブログ

血縁、地縁、社縁 [これから日本の話をしよう!]

私は週の半分くらい、朝の満員電車に乗る。
あれは何なのだろう?

混むのはしょうがない。

人が多すぎると思うのだが、私もその一因(一員)だ。


降りる人の流れに抵抗し、いいポジションを確保しようと頑張る人がいる。流れに逆らったり、動かなかったり、あるいは新たに乗ってくる人に自分のテリトリーを邪魔されないように、梃子でも動かないかのように固まり、頑張りすぎる人がいる。入り口近くを陣取りたいのか、まだ詰められるのに、新たに人が乗り込んでこないように壁のように立ちはだかる人もいる。


これらの人は非常に迷惑だと思うのだが、彼らが悪人かと言うと、そういうわけではないだろう。


昔、電話ボックス(懐かしい)に何人詰め込めるかという実験があった。
リハーサルで、まずは詰め込まれる。ぎゅうぎゅう押して、入っていく。
その後休憩をはさみ、本番。
ところが、リハーサルよりも入らない。

その理由は、被験者同士が知り合いになってしまって、気を遣い合うようになったところにある、というもの。


これは、ありそうな話だ。


遠慮なく人を押し込めるのも、他の人が入れないように立ちはだかるのも、自分のテリトリーを確保すべく意地悪するのも、相手が見ず知らずで、恐らく今後も知り合う可能性が低いからに他ならないから、だと思う。

私は、その感覚が、至る所に蔓延しているように思える。

血縁は小ロットになった。
地縁も薄れている。
社縁だって、壊れかけているじゃないか。


縁が薄れれば、エンリョもなくなる。


日本的な村社会のシステムというのは、嫌なイメージがある。重苦しくて、陰湿で、息苦しいイメージだ。しかし、本当に、そんなに悪いものだろうか?

確かにべったりとした、村社会システムは、私も嫌だ。しかし、そこに含まれていた相互扶助の仕組みは、実はとても大切で、うまく機能する部分もあった。


村八分という消極的制裁がある。子どもっぽくいえば、“絶交”だ。
この言葉には、嫌なイメージしかない。


しかし、なぜ八分なのか、なぜ十分(全部)ではないのか、考えたことはあるだろうか?


村八分とは、10ある交際のうち、2つだけを残してのけ者にするというものだ。

では、残された2つとは何か。

葬式と、火災の消火活動だ。この2つには実用的・必要性があるのだが、それにしても全てをのけられるわけではない。

だからどうしたと言われればそれまでだが、今、この私達の社会の進歩した部分を合わせて再設計すれば、村社会システムはもっと良くなるのではないかと、私は思う。そう、“改良版”村社会システムだ。


宗教的な寄る辺のない日本人にとって、“改良版”村社会システムは必要不可欠だと思う。


ネット上で、この村社会システムが機能し始めている場所もあるように感じる。しかし、私はそれが良いとは思えない。ネットを活用するにしても、そこでバーチャルな関係ではなく、実社会上の血縁、地縁、社縁が必要だと考える。

血縁、地縁、社縁・・・そう考えると、こう主張している私ですら、「何だかめんどくせーなー」と思ってしまう。

困ったものだ。



つらつらつら・・・。

自由と無責任は違う。だけど、往々にして混交している。

悪貨が良貨を駆逐する時代に思えてならない。
タグ:地縁 血縁 社縁
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。