夜の国のクーパーを読む③「戦うということは、そういうことだ」 [これから日本の話をしよう!]
引き続き、「夜の国のクーパー」について。今回は私なりのアプローチ、感想です。
若干、ネタバレしますのでご注意を。
私の場合、伊坂さんの小説がとても好きなので、読書して普通に楽しむこと以外に、「もしかしたら、これって?」と自分なりに積極的に解釈して、想像して、妄想して楽しむようにしている。
というわけで、今回も積極的に解釈して楽しむことにした。
これは、私の妄想の読書記である。
さて、物語というものは、普段自分の頭では考えないような事、日常生活では味わえない突飛な事、楽しい状況悲しい気持ち恐ろしい現実というものを想像させてくれる。
人は寝ている間に夢を見る。
恐ろしい夢を見ることがある。あれは、実際に恐ろしい事実が起こったときのための“予行練習”なのだと、何かで読んだ覚えがある。事前に想定していれば、覚悟がしやすい。
物語にもそういった“予行練習”的な側面もあるし、また、考えるきっかけも与えてくれるわけでもある。
夜の国のクーパーは、戦争にかんする物語だった。
戦争に負けるということは、どういうことなのか-。
最近はだいぶ“空気”が変わってきたように感じるが、10年か15年くらい前までは、国防についてこんなことを言う人が少なからずいた。「日本は自衛隊も軍隊も持つ必要はない。他国が侵略してくることはあり得ないし、仮に攻め込んできたとしても、日本は平和憲法をつらぬき、いっさいの暴力を行わないべきだ。それこそが、平和憲法を世界に広めることが日本の役割であり、そして、それこそが唯一の抑止である」。
素晴らしい考え方だ。ノーガード戦法というやつで、いわば、留守にするさいも家の鍵をかけないと豪語するのに似ている。
ノーガード戦法であれば、他国の侵略は受けないものなのだろうか?
残念ながら、そうとは限らないと私は思う。ノーガード先方は、そのほかの高度でしたたかな外交戦略とセットで初めて有効なのであって、それ単独では単なる不用心なだけだ。
私たちは、戦争に負けるかもしれない。
戦争には色々な種類がある。
政治的なものだったり、文化的なものだったり、経済的なものだったり。
行使の方法も、色々な種類がある。
軍事的なものだったり、スポーツや芸能娯楽だったり、企業買収や資本参加、土地買い占めだったり。
そして、それでは、「戦争に負けるということは、どういうことなのか」?
それは、どんなことでも起こりえる、ということだ。
私たちはひどく蹂躙されるかもしれないし、洗脳されるかもしれない。
暴力を振るわれるかもしれないし、暴力は振るわれないが搾取されるかもしれない。ひどく搾取する方法もあれば、搾取されていると気づかないように搾取されることもありえる。
全ては征服者の意向次第だ。
太平洋戦争後のアメリカのやり方は上手だったと思う。
有名なものに、3S政策というものがある。
愚民政策のひとつで、大衆の関心を政治に向けさせない戦略だ。3SのSは、スクリーン、スポーツ、セックスの頭文字をとっている。エンターテイメントで愉しませて、夢中にさせて、ガス抜きもさせて、難しくて面倒なことは考えないようにしましょうよ、という弱体化政策だ。
事実で意図的なものなのかどうなのか、実際のところは、私はわからない。
しかし3S政策なるものがあって、そこに経済的な野心で乗っかる日本人がいたとしたら、これは非常にやっかいだろうなと感じる。
企業と手を組み、マクドナルドやコーラやハリウッドを輸出して、他国の文化に進出する彼の国を見ていると、さもありなん。コーポラティズムとは、国の政策に企業を乗っけるやり方だが、最近のソーシャルメディアなんかも、まさにそれでしょう。そういった風潮にのまれ、自分たちの市の名前を売ろうと考えている泉佐野市は、まさに愚の骨頂。
さて、そういった巧妙な征服もあるわけで、コーポラティズムに絡む格差問題、一極支配の弊害について書かれた最近のベストセラーに、「政府は必ず嘘をつく アメリカの「失われた10年」が私たちに警告すること 角川SSC新書」がある。
あるいは、教育的な側面で語られたものに、「23分間の奇跡 (集英社文庫)」がある。この本は、他国に侵略された国の学校に、征服した国から若くて魅力的な女性教師がやってきてからの23分間の物語。
この短時間で女性教師は、全てを変えてしまう。タイトルに“奇跡”とあるが、感動ものではないですよ。とても恐ろしい、侵略のお話。
「夜の国のクーパー」でも、似たようなことが起こっている。
国民は騙され、いいように使われている。そして一部の権力者が、ずるい奴がのさばっている。そして、多くの人はそれに気づいていない。
伊坂さんの「魔王 (講談社文庫)」という小説のなかで、「権力者というのは、ずるい。みんなが気づかないうちに、自分に有利なようにルールを変えてしまう」的な事が書かれていた・・・と思う。
そう、権力者の多くはずるい。こっそりと、自分に都合よくルールを変える。征服されるということは、相手のルールに乗っからなければならないということだ。日本もそうじゃないか。自分達の国を規定する根本的なルールを、変えることができない。むしろ守ろうとしている。
征服者の意向次第で、我々はどうとでもなってしまう。
「夜の国の・・・」の登場人物、権力者の1人として、冠人という国王がでてくる。冠人と書いて、カントと読む。管直人の略か?と思ってしまうが、勘繰りすぎか。冠人は誠実で優秀な権力者かと思われていたが、実際はそうでもなかった。権力者のずるいところが、この冠人にも表れている。
国民は長らく騙され続けてきたのだ。
そして、危機は突然襲いかかってきた。
征服者の意向が変わったのだ。
征服されていた人々は、動揺し、恐れておびえ、やがて感情に流されて湧き上がり沸騰する。しかし、簡単に受け流されて主導権を取られてしまう。
果たして彼らは、無事に済むのだろうかー?
そういえば、最近面白いと思う連続ドラマで、「リーガルハイ」がある。
とってもハイテンションで負け知らずな弁護士が早口で奇妙に立ち回るドラマで、とても面白い。
このドラマの直近の話(6/12、第9話)で、堺雅人がふんする弁護士が、「慣れ合いという文化に毒された」善良な村人たちに、こんなセリフを言う。
「戦うということと、ズワイガニ喰い放題のバスツアーとの違いがわかっていない」
村人たちは、自分達の村にできた工場のせいで、公害被害にあっているかもしれない。そこで東京の優秀な弁護士を雇い、企業と戦おうと決意した。しかし、その決意はすぐにしおれてしまう。
この公害を垂れ流している企業と、美しい村に住めなくなるという設定、もしかして原発問題と原発マネーにずぶずぶにされた地元の村問を示している?とも思えてくるのだが、どうだろう。
ともかく、すぐになぁなぁで懐柔されそうになる村人たちに対して、この弁護士はこう言う。
「土を汚され、水を汚され、土地に住めなくなるかもしれない。」
「先人たちに申し訳ないとは、子子孫孫に恥ずかしいとは思わないのですか」
「誰にも責任を取らせず、見たくないものは見ず、みんな仲良しに暮らしていけば楽でしょう」
「しかし、もし誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない、深い水を負う覚悟で前に進まなければならない、戦うということはそういうことだ、愚痴なら墓場で言えばいい」
「相手に一矢報い、意気地を見せつける方法は、奪われたものと踏みにじまれた尊厳にふさわしい対価を勝ちとるだけなんだ、それ以外にないんだ」
「敗戦のどん底からこの国の最繁栄期を築きあげたあなた方なら、その魂をきっとどこかに残している・・・」
ああ、ちょっと書きすぎたか。
私たちが自分達の尊厳を取り戻すためには、戦う覚悟が必要だ。
「しかし、もし誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない、深い水を負う覚悟で前に進まなければならない、戦うということはそういうことだ、愚痴なら墓場で言えばいい」
多くの場合、立ち上がらず、我々は征服される。ずるい奴らに。
さて、「夜の国の・・・」からだいぶ脱線した気もするが、この本は戦争に関する話だ。色々なものが、その中で読みとれると思う。
個人的には、この本には、日本の敗戦以外にも、東北の歴史に関するものを感じるところがある。伊坂さんが東北仙台出身のため、私が勝手に結び付けているだけかもしれないが、かつて東北はとても恵まれた土地だった。自分達の文化があり、自然とともに過ごしてきた。しかし、そこに侵略の手が伸びる。蝦夷という不吉な名前を付けられ、北へ北へと追い込まれ、歴史の経過とともに征服されていく。
鉄国、ねぇ・・・。
ともかく、「夜の国のクーパー」、色々と考えさせられた。
また近いうちに再読してみたいと思う。きっとその時は、また別の読み方で楽しめるだろう。
若干、ネタバレしますのでご注意を。
私の場合、伊坂さんの小説がとても好きなので、読書して普通に楽しむこと以外に、「もしかしたら、これって?」と自分なりに積極的に解釈して、想像して、妄想して楽しむようにしている。
というわけで、今回も積極的に解釈して楽しむことにした。
これは、私の妄想の読書記である。
さて、物語というものは、普段自分の頭では考えないような事、日常生活では味わえない突飛な事、楽しい状況悲しい気持ち恐ろしい現実というものを想像させてくれる。
人は寝ている間に夢を見る。
恐ろしい夢を見ることがある。あれは、実際に恐ろしい事実が起こったときのための“予行練習”なのだと、何かで読んだ覚えがある。事前に想定していれば、覚悟がしやすい。
物語にもそういった“予行練習”的な側面もあるし、また、考えるきっかけも与えてくれるわけでもある。
夜の国のクーパーは、戦争にかんする物語だった。
戦争に負けるということは、どういうことなのか-。
最近はだいぶ“空気”が変わってきたように感じるが、10年か15年くらい前までは、国防についてこんなことを言う人が少なからずいた。「日本は自衛隊も軍隊も持つ必要はない。他国が侵略してくることはあり得ないし、仮に攻め込んできたとしても、日本は平和憲法をつらぬき、いっさいの暴力を行わないべきだ。それこそが、平和憲法を世界に広めることが日本の役割であり、そして、それこそが唯一の抑止である」。
素晴らしい考え方だ。ノーガード戦法というやつで、いわば、留守にするさいも家の鍵をかけないと豪語するのに似ている。
ノーガード戦法であれば、他国の侵略は受けないものなのだろうか?
残念ながら、そうとは限らないと私は思う。ノーガード先方は、そのほかの高度でしたたかな外交戦略とセットで初めて有効なのであって、それ単独では単なる不用心なだけだ。
私たちは、戦争に負けるかもしれない。
戦争には色々な種類がある。
政治的なものだったり、文化的なものだったり、経済的なものだったり。
行使の方法も、色々な種類がある。
軍事的なものだったり、スポーツや芸能娯楽だったり、企業買収や資本参加、土地買い占めだったり。
そして、それでは、「戦争に負けるということは、どういうことなのか」?
それは、どんなことでも起こりえる、ということだ。
私たちはひどく蹂躙されるかもしれないし、洗脳されるかもしれない。
暴力を振るわれるかもしれないし、暴力は振るわれないが搾取されるかもしれない。ひどく搾取する方法もあれば、搾取されていると気づかないように搾取されることもありえる。
全ては征服者の意向次第だ。
太平洋戦争後のアメリカのやり方は上手だったと思う。
有名なものに、3S政策というものがある。
愚民政策のひとつで、大衆の関心を政治に向けさせない戦略だ。3SのSは、スクリーン、スポーツ、セックスの頭文字をとっている。エンターテイメントで愉しませて、夢中にさせて、ガス抜きもさせて、難しくて面倒なことは考えないようにしましょうよ、という弱体化政策だ。
事実で意図的なものなのかどうなのか、実際のところは、私はわからない。
しかし3S政策なるものがあって、そこに経済的な野心で乗っかる日本人がいたとしたら、これは非常にやっかいだろうなと感じる。
企業と手を組み、マクドナルドやコーラやハリウッドを輸出して、他国の文化に進出する彼の国を見ていると、さもありなん。コーポラティズムとは、国の政策に企業を乗っけるやり方だが、最近のソーシャルメディアなんかも、まさにそれでしょう。そういった風潮にのまれ、自分たちの市の名前を売ろうと考えている泉佐野市は、まさに愚の骨頂。
さて、そういった巧妙な征服もあるわけで、コーポラティズムに絡む格差問題、一極支配の弊害について書かれた最近のベストセラーに、「政府は必ず嘘をつく アメリカの「失われた10年」が私たちに警告すること 角川SSC新書」がある。
政府は必ず嘘をつく アメリカの「失われた10年」が私たちに警告すること 角川SSC新書
- 作者: 堤 未果
- 出版社/メーカー: 角川マガジンズ(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2012/02/10
- メディア: 新書
あるいは、教育的な側面で語られたものに、「23分間の奇跡 (集英社文庫)」がある。この本は、他国に侵略された国の学校に、征服した国から若くて魅力的な女性教師がやってきてからの23分間の物語。
この短時間で女性教師は、全てを変えてしまう。タイトルに“奇跡”とあるが、感動ものではないですよ。とても恐ろしい、侵略のお話。
「夜の国のクーパー」でも、似たようなことが起こっている。
国民は騙され、いいように使われている。そして一部の権力者が、ずるい奴がのさばっている。そして、多くの人はそれに気づいていない。
伊坂さんの「魔王 (講談社文庫)」という小説のなかで、「権力者というのは、ずるい。みんなが気づかないうちに、自分に有利なようにルールを変えてしまう」的な事が書かれていた・・・と思う。
そう、権力者の多くはずるい。こっそりと、自分に都合よくルールを変える。征服されるということは、相手のルールに乗っからなければならないということだ。日本もそうじゃないか。自分達の国を規定する根本的なルールを、変えることができない。むしろ守ろうとしている。
征服者の意向次第で、我々はどうとでもなってしまう。
「夜の国の・・・」の登場人物、権力者の1人として、冠人という国王がでてくる。冠人と書いて、カントと読む。管直人の略か?と思ってしまうが、勘繰りすぎか。冠人は誠実で優秀な権力者かと思われていたが、実際はそうでもなかった。権力者のずるいところが、この冠人にも表れている。
国民は長らく騙され続けてきたのだ。
そして、危機は突然襲いかかってきた。
征服者の意向が変わったのだ。
征服されていた人々は、動揺し、恐れておびえ、やがて感情に流されて湧き上がり沸騰する。しかし、簡単に受け流されて主導権を取られてしまう。
果たして彼らは、無事に済むのだろうかー?
そういえば、最近面白いと思う連続ドラマで、「リーガルハイ」がある。
「リーガル・ハイ」公式BOOK 古美門研介 草創記62484-37 (ムック)
- 作者: 著訳編者表示なし
- 出版社/メーカー: 角川マガジンズ(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2012/05/30
- メディア: ムック
とってもハイテンションで負け知らずな弁護士が早口で奇妙に立ち回るドラマで、とても面白い。
このドラマの直近の話(6/12、第9話)で、堺雅人がふんする弁護士が、「慣れ合いという文化に毒された」善良な村人たちに、こんなセリフを言う。
「戦うということと、ズワイガニ喰い放題のバスツアーとの違いがわかっていない」
村人たちは、自分達の村にできた工場のせいで、公害被害にあっているかもしれない。そこで東京の優秀な弁護士を雇い、企業と戦おうと決意した。しかし、その決意はすぐにしおれてしまう。
この公害を垂れ流している企業と、美しい村に住めなくなるという設定、もしかして原発問題と原発マネーにずぶずぶにされた地元の村問を示している?とも思えてくるのだが、どうだろう。
ともかく、すぐになぁなぁで懐柔されそうになる村人たちに対して、この弁護士はこう言う。
「土を汚され、水を汚され、土地に住めなくなるかもしれない。」
「先人たちに申し訳ないとは、子子孫孫に恥ずかしいとは思わないのですか」
「誰にも責任を取らせず、見たくないものは見ず、みんな仲良しに暮らしていけば楽でしょう」
「しかし、もし誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない、深い水を負う覚悟で前に進まなければならない、戦うということはそういうことだ、愚痴なら墓場で言えばいい」
「相手に一矢報い、意気地を見せつける方法は、奪われたものと踏みにじまれた尊厳にふさわしい対価を勝ちとるだけなんだ、それ以外にないんだ」
「敗戦のどん底からこの国の最繁栄期を築きあげたあなた方なら、その魂をきっとどこかに残している・・・」
ああ、ちょっと書きすぎたか。
私たちが自分達の尊厳を取り戻すためには、戦う覚悟が必要だ。
「しかし、もし誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない、深い水を負う覚悟で前に進まなければならない、戦うということはそういうことだ、愚痴なら墓場で言えばいい」
多くの場合、立ち上がらず、我々は征服される。ずるい奴らに。
さて、「夜の国の・・・」からだいぶ脱線した気もするが、この本は戦争に関する話だ。色々なものが、その中で読みとれると思う。
個人的には、この本には、日本の敗戦以外にも、東北の歴史に関するものを感じるところがある。伊坂さんが東北仙台出身のため、私が勝手に結び付けているだけかもしれないが、かつて東北はとても恵まれた土地だった。自分達の文化があり、自然とともに過ごしてきた。しかし、そこに侵略の手が伸びる。蝦夷という不吉な名前を付けられ、北へ北へと追い込まれ、歴史の経過とともに征服されていく。
鉄国、ねぇ・・・。
ともかく、「夜の国のクーパー」、色々と考えさせられた。
また近いうちに再読してみたいと思う。きっとその時は、また別の読み方で楽しめるだろう。
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