占うにしても、世界に働きかける [これから日本の話をしよう!]
最近、決断疲れということがよく言われるが、占い師に頼りたくなるのも決断疲れの一種なのかもしれない。現代に生きる我々には、日々の面倒な“決断ごと”が多すぎる。芸能人ともなれば尚更だろう。わずらわしいこと、面倒なこと、嫌なこと、気を使わなければいけないこと、こじれていることなど、きっと色々あるに違いない。
相変わらず占いが人気だ。日本人は占い好きだと言われる。血液型占いや星座占いに始まり、ランキングなんてものも、似たようなものだろう。
私も例えばアマゾンなんかでは、アマゾンランキングでめぼしい本を探し、他人のレビューに判断の一部を依存している。
ところで、足占というのをご存知だろうか?古代や中世ころの、古い時代の占いである。足占とかいて、「あうら」もしくは「あしうら」と読む。私のPCでは、完璧に足裏と変換されてしまう。
足占とは字のごとく、占いの一種だ。
一歩一歩を吉凶を唱えながら歩き、目標地点に到達したときにどちらだったかを占う。
そう、花びらをちぎって「好き、嫌い、好き・・」とやるやつと、似たようなものだ。
しかし、その目標地点に近づいてきたところで、ある程度、どんな答えがでるかわかってしまう。だからつま先立ちになったり、変な動きをして、自分の望む結果になるようコントロールしたらしい。その様がまるで踊りのようだったという(出典不明。忘れた)。
そう、花占いで花びらを全部ちぎってしまい、強引に葉っぱや茎の部分に突入する(非法規的処置の)ようなものだ。
私は思うのだが、占いにしても何にしても、このようにある種強引に“運を引き寄せる”くらいの図太さがあっていいのではないかと思う。
占いをちょっと気にするくらいならいい。
しかし、人間疲れきってしまうと、やがて依存の度合いが増してしまう。
といっても、無理か。
もうひとつ、古代には夕占という占いがある。
「ゆうけ」と読み、あるいは辻占(つじうら)とも言われる。
これは夕方、辻(道の分かれるところ)に立ち、通りかかる人やもの、聞こえてくる声に耳を傾け、それを占いに用いる方法だ。詳しい作法は知らないが、これだけの情報でみると、なにやらインスピレーションを得るような方法で、なんとなく好ましく感じる。
他者と自分。
外と内。
相互の影響がないと成り立たない占いに見える。
自分から世界(自分の外という意味ね)に働きかけよう。
そして、疲れたのなら、やっぱり少し休むことが必要なのだと思う。
ちなみに上記のような足占、夕占(辻占)といったものは、万葉集などによく出てくる。
一つ紹介。
「月夜よみ 門に出で立ち 足占して ゆく時さへや 妹に逢はざらむ」
妹というのは、兄弟姉妹の妹ではなく、奥さんだか彼女のことだろうね。
会いたくて、占ってみて、良さそうだけど、それでも会えないかも。見たいな意味かね?
2012-02-24 12:43
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