感情の暴走 [雑談]
先日、大いに反省する機会があった。
この記事を読んでのことだ。
森達也さんによるもので、あるテレビ番組での死刑制度の反対に対する意見に、多くの非難が寄せられたこと、そして、それらの多くは非難というよりも罵倒に近いということを取り上げ、
「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい・・・
と切り返している。
ここではそのコラムの詳細には触れない。興味のある人は上のリンク先から読んでほしい。
さて、私自身、死刑制度についてどう考えてうるかと言うと、賛成だ。いや、事件によっては「死刑なんぞ生ぬるい!もっと重い罰を!!」とすら考えたりする。例えば(上のコラムでも取り上げられているが)光市の母子殺害事件。あれなどを見ると、被害者や遺族(ご主人)に感情移入してしまい、もう、犯人が憎くて憎くて憎くて・・・。
そんな感情を抱えたまま、そう、死刑廃止などということを主張する番組なんて見たら、
「自分の子どもを殺されても同じことを言えるのか!この畜生めっ!!」と叫びたくなるだろう。それは森達也さんの言う、非難というよりは罵倒といった類の書き込みをしてしまうかもしれない。
いや、それどころではおさまらない。
「ええい、こんな馬鹿な(死刑廃止などという)発言をする輩には、殺人者の群れの中に放ってやろう。ご希望どおり、お前の女房や子どもも一緒だ。さぁ楽しみだ。どうとにでもなりやがれ」
なんてつぶやいたりするかもしれない。
しかし、だ。
なぜ私の感情は、こうも激しく揺り動かされているのだろう?
例えばだ。
よく映画や小説やドラマなんかで冤罪ものがあるが、それを見ているときには冤罪者(犯罪者)を軽々しく非難する人々に嫌悪感を感じる。
私は別に、光市の事件に、冤罪の可能性があると考えているわけではない。
ただ、私は気がついてしまったのだ。
自分が一面からしか物事を見られないということを。
そして、いとも簡単に、私の感情は激しく動かされてしまうのだということを。
そのコラムを読んで私が思ったことを羅列する。
・感情は一時的に激しく燃え上がる。理性的なものとは反対のものだ。
・様々な可能性を考えると、裁判は感情と切り離して行われるべきである。
・法律も、感情と切り離して作られ、判断されるべきである
・であるなら、「自分の子どもが被害にあったら」なんて人は法律や裁判に関わるべきではない(悲しいが)
・そして判決、判断においても、感情は切り離して考えるべきである
私は、感情というものは、とても大切なものだと思っている。
だから、感情を押し込めたり、無視したりということは、よくないことだと考えている。
しかし、感情のままに己が左右され操られるのも、それはそれで違うと思う。
つまり・・・感情を受け止めるというのは、非常に重要なことだと考える。
感情を受け止める、とは何か。
自分がなぜ悲しいと思うのか、怒っているのか、悔しいと感じているのか、そういったことを受け止める、つまりは向き合うということが重要だと思うのだ。
ところで、このブログでも何度も紹介している「魔王 (講談社文庫)」という小説に、次のようなセリフが出てきた・・・と思う。
-ふだん親切でもない人が、国のため、日本のためと言っても信用できない(意訳趙訳。手元になく思い出せないゆえ)
私は同じようなことを、非難というより罵倒ともいうべき私の感情高まった発言に、思ってしまったのである。
また、こうも思う。
あの犯罪者に対しては限りなく残酷になれるような私は、本当に、“被害者の身”になって考えられるような、優しい人間なのだろうか?
そんな優しさから発現した思いなのか?スタートは、もっと別のところにあったのではないか?
私は、正体もわからぬ何かに、感情を、怒りや憎しみという負の感情を焚き付けられていただけではないか?あの怒りや憎しみは、“被害者の身”になって考えたから現われたのではなく、もっと別のところから発生しているのではないか?ある意味、暴走だ。
きっと、被害者の身になって考えられる人、本当に優しい人というのは、被害者だけでなく、犯罪者に対しても、それなりに、何かしらの優しさを当てられるような人なんじゃないかと思う。
もちろん、その人が被害者の身内でなく、第三者である場合の話だ。当事者ではないからこそ、の話だ。
私は、もし当事者(被害者、あるいはその身内、関係者)であったらならば、犯人を許すことはできないだろう。しかし、許すことの可能性は、残しておきたいと考える。
そして、これから先、残酷な事件でもあれば、これまでと同じように、怒り、不愉快になるだろう。そんな時、死刑廃止などという発言を聞けば、不快に思うだろう。しかし・・・。
この記事を読んでのことだ。
森達也さんによるもので、あるテレビ番組での死刑制度の反対に対する意見に、多くの非難が寄せられたこと、そして、それらの多くは非難というよりも罵倒に近いということを取り上げ、
「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい・・・
と切り返している。
ここではそのコラムの詳細には触れない。興味のある人は上のリンク先から読んでほしい。
さて、私自身、死刑制度についてどう考えてうるかと言うと、賛成だ。いや、事件によっては「死刑なんぞ生ぬるい!もっと重い罰を!!」とすら考えたりする。例えば(上のコラムでも取り上げられているが)光市の母子殺害事件。あれなどを見ると、被害者や遺族(ご主人)に感情移入してしまい、もう、犯人が憎くて憎くて憎くて・・・。
そんな感情を抱えたまま、そう、死刑廃止などということを主張する番組なんて見たら、
「自分の子どもを殺されても同じことを言えるのか!この畜生めっ!!」と叫びたくなるだろう。それは森達也さんの言う、非難というよりは罵倒といった類の書き込みをしてしまうかもしれない。
いや、それどころではおさまらない。
「ええい、こんな馬鹿な(死刑廃止などという)発言をする輩には、殺人者の群れの中に放ってやろう。ご希望どおり、お前の女房や子どもも一緒だ。さぁ楽しみだ。どうとにでもなりやがれ」
なんてつぶやいたりするかもしれない。
しかし、だ。
なぜ私の感情は、こうも激しく揺り動かされているのだろう?
例えばだ。
よく映画や小説やドラマなんかで冤罪ものがあるが、それを見ているときには冤罪者(犯罪者)を軽々しく非難する人々に嫌悪感を感じる。
私は別に、光市の事件に、冤罪の可能性があると考えているわけではない。
ただ、私は気がついてしまったのだ。
自分が一面からしか物事を見られないということを。
そして、いとも簡単に、私の感情は激しく動かされてしまうのだということを。
そのコラムを読んで私が思ったことを羅列する。
・感情は一時的に激しく燃え上がる。理性的なものとは反対のものだ。
・様々な可能性を考えると、裁判は感情と切り離して行われるべきである。
・法律も、感情と切り離して作られ、判断されるべきである
・であるなら、「自分の子どもが被害にあったら」なんて人は法律や裁判に関わるべきではない(悲しいが)
・そして判決、判断においても、感情は切り離して考えるべきである
私は、感情というものは、とても大切なものだと思っている。
だから、感情を押し込めたり、無視したりということは、よくないことだと考えている。
しかし、感情のままに己が左右され操られるのも、それはそれで違うと思う。
つまり・・・感情を受け止めるというのは、非常に重要なことだと考える。
感情を受け止める、とは何か。
自分がなぜ悲しいと思うのか、怒っているのか、悔しいと感じているのか、そういったことを受け止める、つまりは向き合うということが重要だと思うのだ。
ところで、このブログでも何度も紹介している「魔王 (講談社文庫)」という小説に、次のようなセリフが出てきた・・・と思う。
-ふだん親切でもない人が、国のため、日本のためと言っても信用できない(意訳趙訳。手元になく思い出せないゆえ)
私は同じようなことを、非難というより罵倒ともいうべき私の感情高まった発言に、思ってしまったのである。
また、こうも思う。
あの犯罪者に対しては限りなく残酷になれるような私は、本当に、“被害者の身”になって考えられるような、優しい人間なのだろうか?
そんな優しさから発現した思いなのか?スタートは、もっと別のところにあったのではないか?
私は、正体もわからぬ何かに、感情を、怒りや憎しみという負の感情を焚き付けられていただけではないか?あの怒りや憎しみは、“被害者の身”になって考えたから現われたのではなく、もっと別のところから発生しているのではないか?ある意味、暴走だ。
きっと、被害者の身になって考えられる人、本当に優しい人というのは、被害者だけでなく、犯罪者に対しても、それなりに、何かしらの優しさを当てられるような人なんじゃないかと思う。
もちろん、その人が被害者の身内でなく、第三者である場合の話だ。当事者ではないからこそ、の話だ。
私は、もし当事者(被害者、あるいはその身内、関係者)であったらならば、犯人を許すことはできないだろう。しかし、許すことの可能性は、残しておきたいと考える。
そして、これから先、残酷な事件でもあれば、これまでと同じように、怒り、不愉快になるだろう。そんな時、死刑廃止などという発言を聞けば、不快に思うだろう。しかし・・・。
2012-03-30 19:48
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