未来の闇を突き抜ける、7人の盲人 [これから日本の話をしよう!]
私の身の回りの状況も、そして領土問題や政治の停滞といった日本の状況も、どうも視界が悪い。
病気で例えると、ぶっ倒れるほど具合が悪いわけではなく、しかし、長期間だるい。息苦しいような胸の苦しさと、長引く不調で、自分は何か悪い病気にでもかかっているのではないか、そう感じてしまうような状態に似ている。
不安ゆえ、先を見通そうとしても、靄がかかっているようで、まるで見えない。残るのは不安。だからこそ、余計に未来を見通したい。
ということで、最近読んだ本に、「静かなる大恐慌 (集英社新書)」がある。
本書を手にとったのはタマタマだが、購読したのには理由がある。
少し前にこのブログで紹介した、「ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉」だが、あれを読んでいて疑問に感じたところがある。
この本は、2025年に向けた、働き方革命をテーマに書かれている。
つまりは未来を予想する本の一種だ。
そこに書かれている未来は、ネット環境とグローバル化が進み、それに伴って私たちの働き方も変わる、と予想されている。
しかし、そこに書かれていることの幾つかは、すでに現在、出現している。例えば、SNS、フリーランサーの増加、マッチングサイトの増加、途上国の台頭など。
つまり、“本書の指し示す未来は、あくまで現状から真っ直ぐ進んだ直線上の未来”が描かれている。
そこで私が思ったのが、「果たして未来は、この通りにまっすぐ進むのだろうか?」という疑問だった。
「静かなる大恐慌」には、1つのリスク・シナリオが書かれている。
それは、グローバル化した資本主義が抱える問題によって生じる問題。そのリスクシナリオだ。
本書では、現在を第二次グローバル化とし、過去にもグローバル化の、現在と同様の動きがあったと指摘する。それは世界大戦前。それを第一次グローバル化とし、この第一次は、大恐慌と戦争という結末へ行き着いた。
現在の第二次グローバル化も同様に問題を抱えているが、昔よりも政府・各国機関の対応が高度になっているため、大きな大恐慌が発生していないだけだ。しかし、実はいま、世界は恐慌に飲み込まれつつある。しかし、この恐慌があまりに静かであるため、気がついていないだけである、という指摘だ。
まるで「茹で蛙」のようだな。
有名な喩えなのでご存知の人も多いと思うが、茹で蛙とは、カエルを熱湯に入れれば熱くてすぐに飛び出る。しかし、水にカエルを入れて、徐々に熱していくと、カエルは気がつかず、茹でられて死んでしまう、というもの。
私たちが、この静かなる恐慌に飲み込まれつつあるのに気がついていないのだとしたら、これは本当に恐ろしいものである。徐々に病魔に蝕まれるようで、怖い。
「ワークシフト」と併せて本書を読むことで、未来を考察するのにバランスがいい。ぜひお勧めする。
さて、とはいえ、やはり未来は相変わらず見通せない。
それは当たり前かもしれない。
未来なんて簡単にわかるはずがない。
わからなくてもいいのだが、自分としては、「ま、だいたいこっちの方だろう」と見当をつけて、それに向かっていきたいと考えている。しかし、その見当がまだつかない。
しかし、この2つの本を読んでいて、1つ共通点があることに気がついた。
ワークシフトでは、後ろの方、350ページのあたりに、「限界公用の逓減の法則」という言葉が出てくる。
これは何かというと、あるものを得る数や量が増えるほど、それに価値を感じなくなることを言う。しかし、この法則は、お金や消費には当てはまるが、経験や友人といったものには当てはまらないという。例えば、所得がどんどん増えても、やがて所得増の喜びは薄まるが、技能や友達は増えれば増えるほど新たな喜びが増す。
ワークシフトでは、そういったものの重要性を強調している。同時に、好きなことを仕事にすることが、未来の厳しい環境においては最大の保険になるとの指摘、またコミュニティに参加することの重要性が指摘されている。
いっぽう、「静かなる大恐慌」でも、最終章のP198において、ケインズの言う「投資の社会科」という言葉を、著者独自の解釈も加えた上で、こう紹介している。
・物的資本の投資だけが投資ではない
・共同体に存在する、目に見えない規範や互酬のネットワークを一種の資本と捉える
・共同体の人間関係も資本であり、井戸端会議や物の貸し借りなどの行為は投資である
・こういった社会関係資本が蓄積された地域ほど、治安や教育・福祉などの面で恩恵を受けている
ゆえに、「自分の持っている一部の資産・・・すべての人間が持っている時間という資本・・・を、賃労働に使うのではなく、共同体のためにつかって何かしらの長期的なリターンを得る。これも投資」である。こういったことにまで考え方を拡張させることが、今後の低成長時代を考えるにあたって、重要であるとしている。
どちらも無形のもの、無形の資本の重要性を説いていている。
それ自体は目新しくないかもしれない。そして、これは即効的な解決策ではない。しかし、私たちは今、大きな壁にぶつかっていて、これを乗り越えるためには、今までのやり方ではダメということだ。
7人の盲人の話は聞いたことがあるだろうか?
7人の盲人が道を歩いていて、ふと、何かに道を遮られた。これでは前に進めない。いったい何がこの道を塞いでいるのだろう?
1人は言った。「目の前に木があるぞ」
別の1人が言う。「いやいや、木ではなく、ヘビのようだ」
「いや、大きな葉だろう」
・・・
この道を塞いでいるのは大きな象である。盲人たちは、それぞれが自分が手で触った部分を説明している。目の前を塞いでいるのが象だと分かっていれば、その障害を取り除くいい手立ても考えられよう。
果たして盲人たちは、どうしたら解答にたどり着けるだろうか。
あるいは、道を通るという目的を果たすことができるだろうか。
「群盲象を評す」とも言われる寓話だ。
どうも、未来の世界は厳しいようだ。
その厳しい世界を生き残るためには、何らかのセーフティが必要だ。
それが無形の資本、共同体であったり、友人や家族関係であったり、人と人の繋がりであったり、あるいは精神的な高まり、安定だったりするのかもしれない。
私たちはこれから暗闇の中を行く。
見えない中で一人、突き進むか?
それとも・・・。
病気で例えると、ぶっ倒れるほど具合が悪いわけではなく、しかし、長期間だるい。息苦しいような胸の苦しさと、長引く不調で、自分は何か悪い病気にでもかかっているのではないか、そう感じてしまうような状態に似ている。
不安ゆえ、先を見通そうとしても、靄がかかっているようで、まるで見えない。残るのは不安。だからこそ、余計に未来を見通したい。
ということで、最近読んだ本に、「静かなる大恐慌 (集英社新書)」がある。
本書を手にとったのはタマタマだが、購読したのには理由がある。
少し前にこのブログで紹介した、「ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉」だが、あれを読んでいて疑問に感じたところがある。
この本は、2025年に向けた、働き方革命をテーマに書かれている。
つまりは未来を予想する本の一種だ。
そこに書かれている未来は、ネット環境とグローバル化が進み、それに伴って私たちの働き方も変わる、と予想されている。
しかし、そこに書かれていることの幾つかは、すでに現在、出現している。例えば、SNS、フリーランサーの増加、マッチングサイトの増加、途上国の台頭など。
つまり、“本書の指し示す未来は、あくまで現状から真っ直ぐ進んだ直線上の未来”が描かれている。
そこで私が思ったのが、「果たして未来は、この通りにまっすぐ進むのだろうか?」という疑問だった。
ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉
- 作者: リンダ・グラットン
- 出版社/メーカー: プレジデント社
- 発売日: 2012/07/28
- メディア: 単行本
「静かなる大恐慌」には、1つのリスク・シナリオが書かれている。
それは、グローバル化した資本主義が抱える問題によって生じる問題。そのリスクシナリオだ。
本書では、現在を第二次グローバル化とし、過去にもグローバル化の、現在と同様の動きがあったと指摘する。それは世界大戦前。それを第一次グローバル化とし、この第一次は、大恐慌と戦争という結末へ行き着いた。
現在の第二次グローバル化も同様に問題を抱えているが、昔よりも政府・各国機関の対応が高度になっているため、大きな大恐慌が発生していないだけだ。しかし、実はいま、世界は恐慌に飲み込まれつつある。しかし、この恐慌があまりに静かであるため、気がついていないだけである、という指摘だ。
まるで「茹で蛙」のようだな。
有名な喩えなのでご存知の人も多いと思うが、茹で蛙とは、カエルを熱湯に入れれば熱くてすぐに飛び出る。しかし、水にカエルを入れて、徐々に熱していくと、カエルは気がつかず、茹でられて死んでしまう、というもの。
私たちが、この静かなる恐慌に飲み込まれつつあるのに気がついていないのだとしたら、これは本当に恐ろしいものである。徐々に病魔に蝕まれるようで、怖い。
「ワークシフト」と併せて本書を読むことで、未来を考察するのにバランスがいい。ぜひお勧めする。
さて、とはいえ、やはり未来は相変わらず見通せない。
それは当たり前かもしれない。
未来なんて簡単にわかるはずがない。
わからなくてもいいのだが、自分としては、「ま、だいたいこっちの方だろう」と見当をつけて、それに向かっていきたいと考えている。しかし、その見当がまだつかない。
しかし、この2つの本を読んでいて、1つ共通点があることに気がついた。
ワークシフトでは、後ろの方、350ページのあたりに、「限界公用の逓減の法則」という言葉が出てくる。
これは何かというと、あるものを得る数や量が増えるほど、それに価値を感じなくなることを言う。しかし、この法則は、お金や消費には当てはまるが、経験や友人といったものには当てはまらないという。例えば、所得がどんどん増えても、やがて所得増の喜びは薄まるが、技能や友達は増えれば増えるほど新たな喜びが増す。
ワークシフトでは、そういったものの重要性を強調している。同時に、好きなことを仕事にすることが、未来の厳しい環境においては最大の保険になるとの指摘、またコミュニティに参加することの重要性が指摘されている。
いっぽう、「静かなる大恐慌」でも、最終章のP198において、ケインズの言う「投資の社会科」という言葉を、著者独自の解釈も加えた上で、こう紹介している。
・物的資本の投資だけが投資ではない
・共同体に存在する、目に見えない規範や互酬のネットワークを一種の資本と捉える
・共同体の人間関係も資本であり、井戸端会議や物の貸し借りなどの行為は投資である
・こういった社会関係資本が蓄積された地域ほど、治安や教育・福祉などの面で恩恵を受けている
ゆえに、「自分の持っている一部の資産・・・すべての人間が持っている時間という資本・・・を、賃労働に使うのではなく、共同体のためにつかって何かしらの長期的なリターンを得る。これも投資」である。こういったことにまで考え方を拡張させることが、今後の低成長時代を考えるにあたって、重要であるとしている。
どちらも無形のもの、無形の資本の重要性を説いていている。
それ自体は目新しくないかもしれない。そして、これは即効的な解決策ではない。しかし、私たちは今、大きな壁にぶつかっていて、これを乗り越えるためには、今までのやり方ではダメということだ。
7人の盲人の話は聞いたことがあるだろうか?
7人の盲人が道を歩いていて、ふと、何かに道を遮られた。これでは前に進めない。いったい何がこの道を塞いでいるのだろう?
1人は言った。「目の前に木があるぞ」
別の1人が言う。「いやいや、木ではなく、ヘビのようだ」
「いや、大きな葉だろう」
・・・
この道を塞いでいるのは大きな象である。盲人たちは、それぞれが自分が手で触った部分を説明している。目の前を塞いでいるのが象だと分かっていれば、その障害を取り除くいい手立ても考えられよう。
果たして盲人たちは、どうしたら解答にたどり着けるだろうか。
あるいは、道を通るという目的を果たすことができるだろうか。
「群盲象を評す」とも言われる寓話だ。
どうも、未来の世界は厳しいようだ。
その厳しい世界を生き残るためには、何らかのセーフティが必要だ。
それが無形の資本、共同体であったり、友人や家族関係であったり、人と人の繋がりであったり、あるいは精神的な高まり、安定だったりするのかもしれない。
私たちはこれから暗闇の中を行く。
見えない中で一人、突き進むか?
それとも・・・。
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