【ちょっと読書】 葬式仏教の誕生-中世の仏教革命 [読書]
本書を読んで私が印象深く感じたのは、第3章の前後あたり。
第3章のタイトルはずばり「仏教式の葬送を望む人々」。
鎌倉仏教以前は、死はもっとも強い穢れであり、僧侶(官僧)は死に関わることをタブーとされていた。しかし、人々の中には葬式を望む人々もいる。そのような中で、慈悲のために穢れ忌避のタブーを犯す僧侶が出現する-
・・・と、サラリと書くと大したことなさそうだが、僧のほとんどが公務員だったこの時代、これは大変なことなのだと思う。
穢れに触れてしまうということは、穢れを嫌うとされていた仏事や神事に関われない。つまり停職のようなものなのだ。本書に引用されている説話の、慈悲によりタブーを破って葬式をしてあげる僧の話がある。私はけっこうジンときてしまった。
葬式のための仏教は、人々の切なる願いから生まれた。
なるほど。いま現在、仮に人々と仏教(あるいは宗教)との間にかい離が見られるのだとしたら、それは“人々の切なる願い”は何かということを問い直す必要があるというサインなのかもしれない。
宗教側も上段にかまえるのではなく・・・。例えば、葬式と仏教との関わり方についても改めて見つめなおす必要があると思う。
3章以前は鎌倉時代よりも古い時代の葬式について。なるほど、羅生門の世界とはこんなか。
3章以後は、石造の墓(五輪塔や供養塔)や檀家制度など。
合間には弥勒信仰や阿弥陀信仰の話などもあって、興味深い。
タグ:葬式仏教の誕生
【ちょっと読書】サラリーマン生態図鑑 [読書]
先ほどのブログ記事(「現代の仕組みを解く手がかり」)でも触れたが、最近とても面白かった本がある。
それがこれだ。
サラリーマンという生物の生態を解き明かした秀逸の本。
生息数が多く身近な生き物ではあるが、彼らは比較的新しい種であり、解明できていないところも多い。行動や習性は合理性に欠くところも多く、未だ謎の多いサラリーマンの生態をここまで明らかにできた観察者に敬意を表したい。
・・・というのは半分冗談で、しかし本書の内容はいたって真面目“ぶった”もので、そこがまた面白い。
サラリーマンの嗜好(なぜ黒い液体をよく飲むのか)や、休日の過ごし方、よくとるポーズ(お会計や、ちょっと通りますよ等のジェスチャー)などを紹介。
個人的にはもう少し文字量が多いほうが好みだが、価格分以上の面白さは味わえると思う。
何か面白い本を探していると言う人にはお勧めだ。
上記とほぼ同じ文章を載せたアマゾンレビューでは、★を4つにした。
自分なりの基準があり4つにしたわけだが、5つでもよかったかもしれない。
いや、面白さだけでいえば間違いなく5つ星だ。
それにしても、サラリーマンというのはなかなか不思議な生き物だ(私自身サラリーマンの範疇に入る)。先ほどのブログ記事でも触れたが、特にこのスーツとやら。なんで前がこんなに開いているんだよ。
クールビズの浸透でノーネクタイが冬でも増えたある日、先輩後輩らしき2人連れのサラリーマンの、こんな会話を耳にした。
「いや~寒いっすね。先輩、ネクタイしないんですか?」
「しないよ?」
「まじっすか!?ネクタイしないと寒くないっすか!?」
すでにスーツは日本のフォーマルな礼装にとどまらず、マフラーの役割も果たしているらしい。いっそのこと、冬は大きめの毛糸でできたネクタイでも売ればよかろう。
こういった実用性もなく不思議な服を当たり前のように着こなしているのだから不思議なもので、このような理屈では通らない習性がサラリーマンにはある。自分自身のことも振り返りつつ、そう感じる。みんな一様に、大量に、同じ方向(駅)へ向かっていくスーツ姿の集団。その姿はある意味かなり異様だ。
サラリーマンになった瞬間に、いくつかの思考スイッチが停止する。なんだかなぁと思いつつ、やめることもできない。
それがこれだ。
サラリーマンという生物の生態を解き明かした秀逸の本。
生息数が多く身近な生き物ではあるが、彼らは比較的新しい種であり、解明できていないところも多い。行動や習性は合理性に欠くところも多く、未だ謎の多いサラリーマンの生態をここまで明らかにできた観察者に敬意を表したい。
・・・というのは半分冗談で、しかし本書の内容はいたって真面目“ぶった”もので、そこがまた面白い。
サラリーマンの嗜好(なぜ黒い液体をよく飲むのか)や、休日の過ごし方、よくとるポーズ(お会計や、ちょっと通りますよ等のジェスチャー)などを紹介。
個人的にはもう少し文字量が多いほうが好みだが、価格分以上の面白さは味わえると思う。
何か面白い本を探していると言う人にはお勧めだ。
上記とほぼ同じ文章を載せたアマゾンレビューでは、★を4つにした。
自分なりの基準があり4つにしたわけだが、5つでもよかったかもしれない。
いや、面白さだけでいえば間違いなく5つ星だ。
それにしても、サラリーマンというのはなかなか不思議な生き物だ(私自身サラリーマンの範疇に入る)。先ほどのブログ記事でも触れたが、特にこのスーツとやら。なんで前がこんなに開いているんだよ。
クールビズの浸透でノーネクタイが冬でも増えたある日、先輩後輩らしき2人連れのサラリーマンの、こんな会話を耳にした。
「いや~寒いっすね。先輩、ネクタイしないんですか?」
「しないよ?」
「まじっすか!?ネクタイしないと寒くないっすか!?」
すでにスーツは日本のフォーマルな礼装にとどまらず、マフラーの役割も果たしているらしい。いっそのこと、冬は大きめの毛糸でできたネクタイでも売ればよかろう。
こういった実用性もなく不思議な服を当たり前のように着こなしているのだから不思議なもので、このような理屈では通らない習性がサラリーマンにはある。自分自身のことも振り返りつつ、そう感じる。みんな一様に、大量に、同じ方向(駅)へ向かっていくスーツ姿の集団。その姿はある意味かなり異様だ。
サラリーマンになった瞬間に、いくつかの思考スイッチが停止する。なんだかなぁと思いつつ、やめることもできない。
タグ:サラリーマン生態図鑑
【ちょっと読書】 比較文化論の試み [読書]
臨在感という言葉をご存知だろうか?
今回は私たち自身を見つめなおすのに格好の本を紹介したいと思う。
100ページ弱で、講義をベースにした口述式で書かれているため、読むのに苦労しない。
私的には多少難しい個所もあったが、そう時間をかけずに読了。何度も読み返したくなる本だ。
“臨在感”という言葉を知ることができただけでも、価格分の元手がとれたと思う。
臨在感とは、ある対象の背後に何かが臨在するという感じで、例えば私たちが古社や桜を見て何かを感じる、そんなようなもの。
これは民族によって異なるらしい。少し前に、ごみ投棄や散歩犬の糞防止のために、畑や道路に小さな鳥居を置く、というのが流行った。アレなんかも我々日本人が感じる臨在感の効果であって、外国の人が見ても何も感じないかもしれない。
本書は30年ほど前の本だが、いまだ共通するところが多いと思う。
例えば本書でふれられている、感情移入についての考察。
「そこにいるのは相手ではなくて自分なんです。~自分の感情を相手に移入してしまってそれを充足する。それを相手への同情ないしは共感とみなす・・・」
これはよく言われるシンパシーとエンパシーの違いかな、と思った。現代の日本人はシンパシー(感情移入)は得意だが、エンパシー(自己移入)は苦手らしい。どちらも共感に通じる。しかし、シンパシーは物事に対する価値観を同一にする集団では適用されるものの、価値観が異なるなかにおいてはうまく機能しない。価値観が異なる状況下においては、エンパシーの能力が必要になる。
(ちなみにエンパシーでググると、なにやらスピリチュアル的なものに多く出くわすが、私の言いたいのはそれとは違う)
これは、似ているように見えて文化がかなり異なる中国や韓国、ロシアという立地に対面している日本にとって・・・
また、原発問題で感情面の対立が起こっている国内においても・・・
今後、重要なキーワードになると思う。
やや本書の話からずれてしまった。上記の私の意見には、北川氏の考え方に影響されている部分があることを追記しておく。
山本七平の本は、日本人とはどういった文化を、価値観を、歴史を持っているのか、深く掘り下げてくれる。私たち自身について知らなければ、対話も不可能であるし、いくらグローバル化といってもあやふやに流され続けるだけだろう。
昨今、諸外国との間で、或いは震災の影響で、日本人のアイデンティティを揺るがす、または刺激する出来事が増えている。
いまこそ、私たち自身を見つめ直す時期だと思う。
今回は私たち自身を見つめなおすのに格好の本を紹介したいと思う。
100ページ弱で、講義をベースにした口述式で書かれているため、読むのに苦労しない。
私的には多少難しい個所もあったが、そう時間をかけずに読了。何度も読み返したくなる本だ。
“臨在感”という言葉を知ることができただけでも、価格分の元手がとれたと思う。
臨在感とは、ある対象の背後に何かが臨在するという感じで、例えば私たちが古社や桜を見て何かを感じる、そんなようなもの。
これは民族によって異なるらしい。少し前に、ごみ投棄や散歩犬の糞防止のために、畑や道路に小さな鳥居を置く、というのが流行った。アレなんかも我々日本人が感じる臨在感の効果であって、外国の人が見ても何も感じないかもしれない。
本書は30年ほど前の本だが、いまだ共通するところが多いと思う。
例えば本書でふれられている、感情移入についての考察。
「そこにいるのは相手ではなくて自分なんです。~自分の感情を相手に移入してしまってそれを充足する。それを相手への同情ないしは共感とみなす・・・」
これはよく言われるシンパシーとエンパシーの違いかな、と思った。現代の日本人はシンパシー(感情移入)は得意だが、エンパシー(自己移入)は苦手らしい。どちらも共感に通じる。しかし、シンパシーは物事に対する価値観を同一にする集団では適用されるものの、価値観が異なるなかにおいてはうまく機能しない。価値観が異なる状況下においては、エンパシーの能力が必要になる。
(ちなみにエンパシーでググると、なにやらスピリチュアル的なものに多く出くわすが、私の言いたいのはそれとは違う)
これは、似ているように見えて文化がかなり異なる中国や韓国、ロシアという立地に対面している日本にとって・・・
また、原発問題で感情面の対立が起こっている国内においても・・・
今後、重要なキーワードになると思う。
やや本書の話からずれてしまった。上記の私の意見には、北川氏の考え方に影響されている部分があることを追記しておく。
山本七平の本は、日本人とはどういった文化を、価値観を、歴史を持っているのか、深く掘り下げてくれる。私たち自身について知らなければ、対話も不可能であるし、いくらグローバル化といってもあやふやに流され続けるだけだろう。
昨今、諸外国との間で、或いは震災の影響で、日本人のアイデンティティを揺るがす、または刺激する出来事が増えている。
いまこそ、私たち自身を見つめ直す時期だと思う。
【ちょっと読書】ジェノサイド [読書]
昨年(2011年)のベストセラーです。
圧巻です。ずば抜けて凄い本だったと思う。
本書は日本、アメリカ、コンゴという3つの地域をまたぎ、創薬・アメリカ政治・傭兵の戦闘という3つの舞台がそれぞれ交差し物語を織りなす。
本書に出てくる要素を見ると、新薬開発、インテリジェンス、アメリカ政治、傭兵の戦闘、アフリカ問題(内紛)、ジェノサイド、少数部族、人類進化、カニバリズム、情報セキュリティ、言語といった幅広い要素が深く惜しげもなく出され、しかも周到にリアリティが確保されている。そこに父と子という人間模様・想いが織り交ぜられ、物語に厚みを与えている。
本書の内容をもってすれば、良質な長編小説が3冊はつくれたはずだ。
途中で、「あれ?もうすぐ終わるよな?でもページがまだまだ・・・」と思ったほど。
冒頭に予想した結末は途中で見事に覆され、私の想像を超えた展開で物語は進んでいった。
タイトルの「ジェノサイド」は、それこそ最初はなぜこのタイトルなのか、ジェノサイドという言葉を軽々しく使わないで欲しいと思ったいたのだが、読み進める途中で、なるほどこれしかない、と納得。
しかし・・・読んでいて辛い個所が何度かあった。
著者の圧倒的な筆力もあり、読者も登場人物と一緒に人間の極限状況に連れて行かれる。
残酷な描写もある。人間の一番醜悪な一面が描かれている。「子供がひどい目にあう場面なんて想像もしたくない」と強く感じる人や、そういった描写が本当に苦手な人は読まない方がいいかもしれない。
私は結構重症で・・・。本当に、世の中どうなっているんだと叫びたくなり目を背けたくなりました。
ただ、本書は単にインパクト重視で外道の描写をしているわけではなく、これは私たち人間に対する重大な問題提起であると感じた。なぜ、我々は戦争を止められないのか。なぜ、互いに殺し合うのか。私たちの安全は、実は非常に危ういところにかろうじて存在しているのではないか。かくいう自分自身の中にも、そういった負の片鱗は存在するかもしれない。
お手軽な博愛主義で簡単に“平和”を結論付けるのではなく、本書を読むことによって、読者はそういった問題に真剣に向き合うことになる。
というか、突きつけられる。
本書は構想20数年、著者渾身の作品。約590ページあり、文字・行間・質・エンターテイメント性、いずれもギッチリつまっている。重たいテーマを取り扱っているが読後感は良く、未来には希望を感じることのできる本。こんなに凄い小説をつくってしまうなんて、この作者の頭の中(構成力)はどうなっているのだろう??
あと、ちょっとひとこと。
アマゾンのレビューでいくつか散見されるが、本書では南京大虐殺について、それが史実であるように書かれていたりする。その点、最近では反発を感じる人もいるかもしれない。
それはわかる。気持ちはわかる。
ストーリー性をもって語られると、不必要にそういった印象が刷り込まれてしまう、という懸念もある。
そういったことに対して強い反発を感じるのであれば、本書を読むのをやめるか、あるいはそういう心構えで読むべきだ。もしくは、実はそうじゃないんだよ、という情報を積極的に発信してもいいと思う。
個人的な意見でいえば、そう思わせる箇所はほんの一部だし、本書の怒涛の面白さは変わらない。
そう思う。
反日・自虐史観全快!!というわけでは決してない。
またジェノサイドというテーマからすれば、南京大虐殺について取り上げざることもありえると思う。しかし、それが事実かどうか、某国(あるいは自国の一部)で言われていることが現実的であるのかどうか、ということについては、本書をきっかけに考えることができれば尚いいと思う。
圧巻です。ずば抜けて凄い本だったと思う。
本書は日本、アメリカ、コンゴという3つの地域をまたぎ、創薬・アメリカ政治・傭兵の戦闘という3つの舞台がそれぞれ交差し物語を織りなす。
本書に出てくる要素を見ると、新薬開発、インテリジェンス、アメリカ政治、傭兵の戦闘、アフリカ問題(内紛)、ジェノサイド、少数部族、人類進化、カニバリズム、情報セキュリティ、言語といった幅広い要素が深く惜しげもなく出され、しかも周到にリアリティが確保されている。そこに父と子という人間模様・想いが織り交ぜられ、物語に厚みを与えている。
本書の内容をもってすれば、良質な長編小説が3冊はつくれたはずだ。
途中で、「あれ?もうすぐ終わるよな?でもページがまだまだ・・・」と思ったほど。
冒頭に予想した結末は途中で見事に覆され、私の想像を超えた展開で物語は進んでいった。
タイトルの「ジェノサイド」は、それこそ最初はなぜこのタイトルなのか、ジェノサイドという言葉を軽々しく使わないで欲しいと思ったいたのだが、読み進める途中で、なるほどこれしかない、と納得。
しかし・・・読んでいて辛い個所が何度かあった。
著者の圧倒的な筆力もあり、読者も登場人物と一緒に人間の極限状況に連れて行かれる。
残酷な描写もある。人間の一番醜悪な一面が描かれている。「子供がひどい目にあう場面なんて想像もしたくない」と強く感じる人や、そういった描写が本当に苦手な人は読まない方がいいかもしれない。
私は結構重症で・・・。本当に、世の中どうなっているんだと叫びたくなり目を背けたくなりました。
ただ、本書は単にインパクト重視で外道の描写をしているわけではなく、これは私たち人間に対する重大な問題提起であると感じた。なぜ、我々は戦争を止められないのか。なぜ、互いに殺し合うのか。私たちの安全は、実は非常に危ういところにかろうじて存在しているのではないか。かくいう自分自身の中にも、そういった負の片鱗は存在するかもしれない。
お手軽な博愛主義で簡単に“平和”を結論付けるのではなく、本書を読むことによって、読者はそういった問題に真剣に向き合うことになる。
というか、突きつけられる。
本書は構想20数年、著者渾身の作品。約590ページあり、文字・行間・質・エンターテイメント性、いずれもギッチリつまっている。重たいテーマを取り扱っているが読後感は良く、未来には希望を感じることのできる本。こんなに凄い小説をつくってしまうなんて、この作者の頭の中(構成力)はどうなっているのだろう??
あと、ちょっとひとこと。
アマゾンのレビューでいくつか散見されるが、本書では南京大虐殺について、それが史実であるように書かれていたりする。その点、最近では反発を感じる人もいるかもしれない。
それはわかる。気持ちはわかる。
ストーリー性をもって語られると、不必要にそういった印象が刷り込まれてしまう、という懸念もある。
そういったことに対して強い反発を感じるのであれば、本書を読むのをやめるか、あるいはそういう心構えで読むべきだ。もしくは、実はそうじゃないんだよ、という情報を積極的に発信してもいいと思う。
個人的な意見でいえば、そう思わせる箇所はほんの一部だし、本書の怒涛の面白さは変わらない。
そう思う。
反日・自虐史観全快!!というわけでは決してない。
またジェノサイドというテーマからすれば、南京大虐殺について取り上げざることもありえると思う。しかし、それが事実かどうか、某国(あるいは自国の一部)で言われていることが現実的であるのかどうか、ということについては、本書をきっかけに考えることができれば尚いいと思う。
タグ:ジェノサイド
【ちょっと読書】竹内文書」の謎を解く [読書]
すごい本だと思いますが、残念ながら私にはあいませんでした。
★3つかな。
知る人ぞ知る、竹内文書。
竹内文書とはなんぞや、についてはウィキを参照。
「神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻んだ石、鉄剣など、一連の総称で、いわゆる古史古伝の書物。写本原本は後述の裁判に提出されたとされるが、返還前に焼失にあっている。一般には研究家らからは「偽書」とされている。ただし、偽書といっても出所が不明で学問的には役立たないというだけで、天津教の人間にとっては貴重なものである」
ようするに大昔のことが書かれている本であり、どのくらい古いかというと、日本の神話といわれる時代のことがかかれている。内容としては、例えばイエス・キリストやら釈迦やらが日本に来ていたとか、日本のピラミッドについて書かれていたり、というようなもの。
と聞くと、普通なら一笑に付し、そのまま本を閉じてしまうかもしれない。
しかし、気になるポイントもあったりするのです。
例えば私が、古代より伝わる謎の文書を見つけたという触れ込みで、古文書つくったとしよう。その場合、まったくのゼロからつくる本にはならないはず。現在伝わる歴史などを参考にし、取り込み、部分的に“うそ”を入れ込むだろう。
そう、仮に偽りの部分があったからといって、全てが偽りだとは限らない。
竹内文書の気になる点というのは、確かに竹内文書が指摘することによって、それまで地元の人間も誰も気にもしていなかったところから遺跡が発見されたりした点にあります。なぜ竹内文書はそれを知っていたのか(記していたのか)。
しかし、あまりにも荒唐無稽な話が多すぎたり、あるいは偽証していると思わしいことが発見されたりして、その信用は失墜しました。
今ではトンでも本、偽書とされている。
この竹内文書に、元共同通信の記者が“ニュートラルな立ち位置”で、客観的に検証したというのが本書だった。
さて、本書について触れる前に、まず私の個人的な好みの傾向をお断りしておきたいと思う。
歴史は好きですが、スピリチュアルや突飛な話(いわゆるトンでも系)は苦手。ただ、不可思議なものを頭ごなしに否定するのはどうかと思うし、所謂“偽書”と云われるような“竹内文書”においても、少なからず真実が含まれているのではないかと期待している人間、といったこところ。
さて、本書はジャーナリストが何年もかけて丹念に竹内文書を追った記録。アマゾンのレビューにあるように、著者はニュートラルな立ち位置で、クリティカルな態度を保とうとしています。
しかしながら、それでもやはり、こういった分野に慣れていない私からすると、違和感を感じてしまう箇所がチラホラとある。
例えば、羽根のラインという不思議な遺跡のラインが、ちょうど南北に一直線に並んでいる・・・というのが本書では紹介されています。この南北は、ちゃんと緯度を確認しないと、こう綺麗に直線で並べられない。つい最近になってこそ、科学が発展してこそ、できる技術です。
古代の文明は、そんな高度な技術を用いて、なぜ南北に一直線に並べる必要があったのか。
その理由について、本書ではこう推測しています。
~~後世に、かつて進んだ文明があったことを伝えたかったからではないか・・・。
どうもしっくり来ない。
そんな理由であんなに“大きなもの”をつくるだろうか?
宗教的な側面や、利便性といった側面でつくるのならわかる。
しかし、自分達が滅びることを前提に、まだ見ぬ未来の人たちに向かって、「こんなにすごい文明が栄えていたんだぜ」という理由で、そんなに大掛かりなものをつくるだろうか?自分達の進んだ文明を知ってほしいのなら、もっと効率的な違うやり方があるのではないか?何で謎解きのように隠しながら残そうとしているのか?
・・・と、いうような違和感を随所に感じてしまいました。
最近続編が出ましたが、そちらをチラッと読んだところ、その違和感の素はより強さを増しています。
続編では調査に行き詰まり、退行催眠によって数千年前の記憶を呼び戻すとのことです。
私から見れば、本書はやっぱり「トンでも系」の本です。
それでも、他の「トンでも系」と比較すると、トンでる度はかなり抑えられている。
そして丹念な取材、ニュートラルな立ち位置を守ろうとする姿勢、そして本書の内容の厚さを考えると、“竹内文書”のようなテーマが好きな人だったらかなり楽しめるのではないか、と思いました。知的好奇心を満たしてくれる内容です。
なんだかんだ文句をつけたようなレビューになってしまいましたが、私は結構、楽しんで読んでいました。
★3つかな。
知る人ぞ知る、竹内文書。
竹内文書とはなんぞや、についてはウィキを参照。
「神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻んだ石、鉄剣など、一連の総称で、いわゆる古史古伝の書物。写本原本は後述の裁判に提出されたとされるが、返還前に焼失にあっている。一般には研究家らからは「偽書」とされている。ただし、偽書といっても出所が不明で学問的には役立たないというだけで、天津教の人間にとっては貴重なものである」
ようするに大昔のことが書かれている本であり、どのくらい古いかというと、日本の神話といわれる時代のことがかかれている。内容としては、例えばイエス・キリストやら釈迦やらが日本に来ていたとか、日本のピラミッドについて書かれていたり、というようなもの。
と聞くと、普通なら一笑に付し、そのまま本を閉じてしまうかもしれない。
しかし、気になるポイントもあったりするのです。
例えば私が、古代より伝わる謎の文書を見つけたという触れ込みで、古文書つくったとしよう。その場合、まったくのゼロからつくる本にはならないはず。現在伝わる歴史などを参考にし、取り込み、部分的に“うそ”を入れ込むだろう。
そう、仮に偽りの部分があったからといって、全てが偽りだとは限らない。
竹内文書の気になる点というのは、確かに竹内文書が指摘することによって、それまで地元の人間も誰も気にもしていなかったところから遺跡が発見されたりした点にあります。なぜ竹内文書はそれを知っていたのか(記していたのか)。
しかし、あまりにも荒唐無稽な話が多すぎたり、あるいは偽証していると思わしいことが発見されたりして、その信用は失墜しました。
今ではトンでも本、偽書とされている。
この竹内文書に、元共同通信の記者が“ニュートラルな立ち位置”で、客観的に検証したというのが本書だった。
さて、本書について触れる前に、まず私の個人的な好みの傾向をお断りしておきたいと思う。
歴史は好きですが、スピリチュアルや突飛な話(いわゆるトンでも系)は苦手。ただ、不可思議なものを頭ごなしに否定するのはどうかと思うし、所謂“偽書”と云われるような“竹内文書”においても、少なからず真実が含まれているのではないかと期待している人間、といったこところ。
さて、本書はジャーナリストが何年もかけて丹念に竹内文書を追った記録。アマゾンのレビューにあるように、著者はニュートラルな立ち位置で、クリティカルな態度を保とうとしています。
しかしながら、それでもやはり、こういった分野に慣れていない私からすると、違和感を感じてしまう箇所がチラホラとある。
例えば、羽根のラインという不思議な遺跡のラインが、ちょうど南北に一直線に並んでいる・・・というのが本書では紹介されています。この南北は、ちゃんと緯度を確認しないと、こう綺麗に直線で並べられない。つい最近になってこそ、科学が発展してこそ、できる技術です。
古代の文明は、そんな高度な技術を用いて、なぜ南北に一直線に並べる必要があったのか。
その理由について、本書ではこう推測しています。
~~後世に、かつて進んだ文明があったことを伝えたかったからではないか・・・。
どうもしっくり来ない。
そんな理由であんなに“大きなもの”をつくるだろうか?
宗教的な側面や、利便性といった側面でつくるのならわかる。
しかし、自分達が滅びることを前提に、まだ見ぬ未来の人たちに向かって、「こんなにすごい文明が栄えていたんだぜ」という理由で、そんなに大掛かりなものをつくるだろうか?自分達の進んだ文明を知ってほしいのなら、もっと効率的な違うやり方があるのではないか?何で謎解きのように隠しながら残そうとしているのか?
・・・と、いうような違和感を随所に感じてしまいました。
最近続編が出ましたが、そちらをチラッと読んだところ、その違和感の素はより強さを増しています。
続編では調査に行き詰まり、退行催眠によって数千年前の記憶を呼び戻すとのことです。
私から見れば、本書はやっぱり「トンでも系」の本です。
それでも、他の「トンでも系」と比較すると、トンでる度はかなり抑えられている。
そして丹念な取材、ニュートラルな立ち位置を守ろうとする姿勢、そして本書の内容の厚さを考えると、“竹内文書”のようなテーマが好きな人だったらかなり楽しめるのではないか、と思いました。知的好奇心を満たしてくれる内容です。
なんだかんだ文句をつけたようなレビューになってしまいましたが、私は結構、楽しんで読んでいました。
タグ:竹内文書」の謎を解く
【ちょっと読書】わたしを離さないで [読書]
自分の感受性では、最後まで本書を理解することができなかった。
著者は長崎で生まれ、5歳のときに父の仕事のために渡英。日本とイギリスのふたつの文化を背景に育った方で、本書は映画化もされたベストセラーです。
私の場合、アマゾンのいくつかのレビューにあるようなリアリティについては気にならず、文章の良さもあってすんなり入り込むことができました。内容が退屈だということもなく、400ページ以上にわたってぎっしりと文字がつまっているが、割と短時間で読めた。
しかし、本書をどのように受け止め、どう表現していいのかがわからない。 確かに読了後、何かが心の中に残っている。しかし私の感受性、表現力、語彙では、これが何かを表現できないばかりか、自分自身でもよくわからない。
何だか、モヤモヤしている。
本書は極力ネタばれはない方がいいと思うので気をつけたいが、 しかし、以下、ちょっとだけネタにふれるので注意してほしい。
本書の中心となる3人は、運命を受け止め、抗うことなく生きているように見える。あるとき、ひとつの希望が見えた。その時の彼女らの反応はどうか。著者のまさに抑制のきいた文章のごとく、彼女達は自分達を抑制しながら行動する。
その心の動きは理解できる。どうしようもならないと運命を受け止めているとき、人はそのように行動するのかもしれない。でも、本心は、望んでいるのは、きっと違うのだろう。
次のセリフが、頭に残っている。
「よく川の中の二人を考える。どこかにある川で、すごく流れが速いんだ。で、その水の中に二人がいる。互いに相手にしがみついている。必至でしがみついているんだけど、結局、流れが強すぎて、かなわん。最後は手を離して、別々に流される・・・」
そこで、本書のタイトルを思い浮かべる。そう、あのカセットテープの。Never Let Me Go・・・わたしを離さないで。わたしを行かせないで。そんなことをしないで。
まさに物語はそのような結末を迎える。
そして、彼女たちの出来事と、想いとを想像するのだけれど、その想像が最後まで辿り着けない。
自分のなかで処理できない。
まだ、私には本書を理解することができない。
何か重要そうなことだと思うのだけれど。
著者は長崎で生まれ、5歳のときに父の仕事のために渡英。日本とイギリスのふたつの文化を背景に育った方で、本書は映画化もされたベストセラーです。
私の場合、アマゾンのいくつかのレビューにあるようなリアリティについては気にならず、文章の良さもあってすんなり入り込むことができました。内容が退屈だということもなく、400ページ以上にわたってぎっしりと文字がつまっているが、割と短時間で読めた。
しかし、本書をどのように受け止め、どう表現していいのかがわからない。 確かに読了後、何かが心の中に残っている。しかし私の感受性、表現力、語彙では、これが何かを表現できないばかりか、自分自身でもよくわからない。
何だか、モヤモヤしている。
本書は極力ネタばれはない方がいいと思うので気をつけたいが、 しかし、以下、ちょっとだけネタにふれるので注意してほしい。
本書の中心となる3人は、運命を受け止め、抗うことなく生きているように見える。あるとき、ひとつの希望が見えた。その時の彼女らの反応はどうか。著者のまさに抑制のきいた文章のごとく、彼女達は自分達を抑制しながら行動する。
その心の動きは理解できる。どうしようもならないと運命を受け止めているとき、人はそのように行動するのかもしれない。でも、本心は、望んでいるのは、きっと違うのだろう。
次のセリフが、頭に残っている。
「よく川の中の二人を考える。どこかにある川で、すごく流れが速いんだ。で、その水の中に二人がいる。互いに相手にしがみついている。必至でしがみついているんだけど、結局、流れが強すぎて、かなわん。最後は手を離して、別々に流される・・・」
そこで、本書のタイトルを思い浮かべる。そう、あのカセットテープの。Never Let Me Go・・・わたしを離さないで。わたしを行かせないで。そんなことをしないで。
まさに物語はそのような結末を迎える。
そして、彼女たちの出来事と、想いとを想像するのだけれど、その想像が最後まで辿り着けない。
自分のなかで処理できない。
まだ、私には本書を理解することができない。
何か重要そうなことだと思うのだけれど。
タグ:わたしを離さないで
【ちょっと読書】伝わる・揺さぶる!文章を書く [読書]
文章で伝えるのって、すごく難しいですよね。
興味を引かなければ読んでもらえないし、書き方が悪ければ読み進めてもらえないし、 読んでもらっても、かみ合わなかったり、共感されなかったり、間違って伝わったり。
昔から文章作成、特に“伝えることの難しさ”に苦手意識があり、 もう一度勉強しておこうと思い購入したなかの1冊です。
私の目的は論文作成のための文章作成ノウハウではなく、 伝える・伝わるコミュニケーションとしての文章作成です。
この本は、考えることの重要さや考え方など、思考法に多くの比重が置かれています。 私の場合、資料や情報の収集などある程度の準備をしているつもりでしたが、 本書を読んで“考える”が不十分だったな、と反省しました。
本書には、実際に考えながら文章を作成していく実践編があるので、 いいトレーニングになると思います。
一方で、ある程度論文作成の思考方について熟知されている方や、 自分が書いた文章を、読み手はどのように思うか、読まれた結果どうなるかを すでに考えある程度結果を出せている人にとっては、あまり必要ないかもしれません。
個人的には、第4節の「自分の立場を発見する」から 第5節の「説得のためにいかに視野を広げるか」について、 自分軸、正論と正論の中での対話、という観点から、非常に考えさせられました。
文書作成について考える1冊として、お勧めです。
でも、私の場合はもっと基礎的な文法から勉強しないと駄目かな?
興味があっちこっちにいってしまうのが私の悪いクセなのだが、最近では古文書の読み書きに興味が言ってしまっている。くずし字とか草書体とか。
ううん、反省。
興味を引かなければ読んでもらえないし、書き方が悪ければ読み進めてもらえないし、 読んでもらっても、かみ合わなかったり、共感されなかったり、間違って伝わったり。
昔から文章作成、特に“伝えることの難しさ”に苦手意識があり、 もう一度勉強しておこうと思い購入したなかの1冊です。
私の目的は論文作成のための文章作成ノウハウではなく、 伝える・伝わるコミュニケーションとしての文章作成です。
この本は、考えることの重要さや考え方など、思考法に多くの比重が置かれています。 私の場合、資料や情報の収集などある程度の準備をしているつもりでしたが、 本書を読んで“考える”が不十分だったな、と反省しました。
本書には、実際に考えながら文章を作成していく実践編があるので、 いいトレーニングになると思います。
一方で、ある程度論文作成の思考方について熟知されている方や、 自分が書いた文章を、読み手はどのように思うか、読まれた結果どうなるかを すでに考えある程度結果を出せている人にとっては、あまり必要ないかもしれません。
個人的には、第4節の「自分の立場を発見する」から 第5節の「説得のためにいかに視野を広げるか」について、 自分軸、正論と正論の中での対話、という観点から、非常に考えさせられました。
文書作成について考える1冊として、お勧めです。
でも、私の場合はもっと基礎的な文法から勉強しないと駄目かな?
興味があっちこっちにいってしまうのが私の悪いクセなのだが、最近では古文書の読み書きに興味が言ってしまっている。くずし字とか草書体とか。
ううん、反省。